見出し画像

マッドフラッド 8 / 江戸時代は存在しない⁉

こんにちは、TOYOです。
200年前、人類の歴史から抹殺されてしまった、地球の歴史上最も巨大な国家「タルタリア帝国」について、これまでお伝えしてきました。

今回は、日本において、私たちが知っている「江戸時代は存在していない」ということをお伝えしたいと思います。

江戸時代は存在しなかった?

世界最大の国家、タルタリア帝国は、1816年2月、突然、歴史上から姿を消してしまいました。
その原因は、レプテリアンが支配するDSの核攻撃と、その後に起こったマッドフラッド(泥の洪水)によって、タルタリア帝国の存在自体が消え去ってしまったのです。

1816年、日本は江戸時代であり、11代将軍、徳川家斉の時代でした。
江戸時代の風景は、浮世絵や時代劇などでよく見かけると思います。

歌川広重「東都名所 駿河町之図」

ちょうど、このような感じでしょうか?
しかし、私たちがこれを目にするのは浮世絵とTVの時代劇の中だけです。
はたして、この姿は本当でしょうか?

当時、北海道はタルタリアの領土でした。その他日本の各地域もタルタリアの友好国であり、その影響を色濃く受けていました。

詩人 安西冬衛

大正から昭和にかけて活躍した詩人の安西冬衛の詩に「てふてふ(ちょうちょう)が一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った」という「春」という作品があります。

この「韃靼海峡」とは日本の「間宮海峡」のことで、間宮林蔵が発見した樺太とユーラシア大陸の間にある海峡のことを指します。
ロシア、アメリカ、イギリス、中国をはじめとした諸外国では、「タタール海峡(韃靼海峡)」と呼ばれています。

また日本全国各地に「たたら」という地名が残っているのです。
いずれの地名も鉄作りや砂鉄の発掘が関係してるようです。

モンタヌス「東インド会社遣日使節紀行(日本誌)」

オランダの宣教師モンタヌス「東インド会社遣日使節紀行」(1669年刊行)、いわゆる「日本誌」に描かれている、京都の三十三間堂はこのような感じだったそうです。

私たちが知っている純和風な雰囲気は微塵も感じ取れませんね。
建物の様式や彫刻、人々の服装も、私たちが知っている江戸時代の様相とはかなり違いますね。

三十三間堂

現在の三十三間堂はこのような感じです。
私たちがよく知っている和風建築のお寺そのものですね。

モンタヌス「日本の神カンノン」

同じくモンタヌスの絵画「日本の神カンノン」。カンノンは観音様のことですが、私たちのイメージとはかなり違いますね。
その姿はまるで、インドのナーガのようです。

ケンペル「江戸、そこにある世界」

これはケンペル「廻国奇観」より「江戸、そこにある世界」という絵です。江戸にある仏像の絵です。

建物はタルタリア様式の石柱とアーチが多数あり、人々の服装も和風ではありません。日本人から見ると外国の風景のように感じますね。
仏像も、私たちがイメージするものとはだいぶ違うようです。

アンベール「将軍家の寺」

アンベール「幕末日本図絵」より「将軍家の寺」の絵です。
どう見てもギリシャ・ローマ様式の巨大神殿のようです。
人々がとても小さく描かれています。
このお寺は、巨人の大きさに合わせて作られているのかもしれませんね。

将軍家の寺は、今でいう芝・増上寺のことだと思われますが、現在の増上寺は写真のとおりです。三十三間堂のように和風建築となっていて、石の階段の上に建築されています。
アンベールの絵に描かれている、ギリシャ・ローマ様式を思わせる箇所はどこにも見当たりません。

1816年に、マッドフラッドが起こり、世界各国に甚大な被害をもたらしました。日本も大変な被害を受けました。
そうだとするならば、アンベールの絵に描かれたギリシャ・ローマ様式の芝・増上寺は、少なからず地面の下に埋まってしまっていても不思議ではありません。

しかし、現在の増上寺は石の階段の上にあります。
これは何を意味するのかというと…
現在の増上寺はマッドフラッドが起こった1816年以降に建築されたということになります。

説明には、昭和49(1974)年に悲願の大殿再建を果たした、と書かれております。

芝・増上寺 かつての三門

上の写真は増上寺のかつての三門とあります。
やはり石の基礎の上に建築されており、地面に埋まってはいません。
かつての増上寺もマッドフラッド以降の建築物ということになります。

あらゆるお寺の基礎が、地面の上ではなく、石の土台の上に建築されています。日本全国のお寺が、地面の上に建っていないのはなぜでしょうか?

マッドフラッド以前の日本は、タルタリア様式の建造物が立ち並び、タルタリア風の衣服を着た人々が普通に歩いていたと考えられます。
その中に、和風の神社や、和服を着た人たちがぽつりぽつりと散見される、という状態だったのではないでしょうか?

1884年から内務省によってまとめられた「日本全国吐戸口表」などの人口統計によると、明治17年の人口は1位は大阪で、新潟、愛媛、兵庫と続き、東京は7位です。

次の年から、明治25年まで、1位はずっと新潟です。
そして大正時代に入ってやっと東京が1位になり、大正7年には、圧倒的な1位に君臨するようになっています。

江戸時代には、江戸のある現在の東京地区の人口は、全国で15位から20位の間であり、幕府のあった江戸は、日本の中心都市では全くなかったことがわかります。

新潟市役所周辺

これは昭和初期の新潟市役所周辺の写真です。新潟市内ではすでに多くのタルタリア様式の建造物が失われていますが、マッドフラッド前の街並みを偲ばせます。

おそらく新潟市は、日本海を通じてタルタリアとの交易を盛んに行っており、ほぼ完全なタルタリア様式の街並みだったのではないでしょうか。


大阪・中之島

こちらは昭和12年(1937年)の大阪・中之島です。何も言われなければ、いったいどこの国かわからないような、完全タルタリア様式の街並みになっていますね。

日本各地にある凱旋門

新橋の凱旋門

こちらは有名な新橋の凱旋門です。日露戦争当時の写真です。やはり人間と比べるとその巨大さがよくわかります。

日比谷の凱旋門

こちらは日比谷の凱旋門です。一風変わった奥行きのあるアーチになっています。屋根の上には玉ねぎ型のドームも見えます。

凱旋門は明治末期の時点で東京だけで十数か所、その他日本全国の主要都市にはほとんどすべて設置されていました。

今は凱旋門と呼ばれていますが、これはタルタリア時代の巨大U型磁石です。町全体に無線で電力を配給し、気の流れを整える機能があったようです。

この巨大U字型門は、現代の商店街の入り口なアーチのように、大規模商店街の入り口に必ず設置されており、商店街全体に電力を配給し、町の人たちの気の流れを整えていたものと思われます。

関東も大阪も昔は沼地(低湿地帯)だったようですが
どちらも「江戸時代に埋められた」とされています。

大阪・梅田では2020年に、1500体もの遺体が見つかっています。
「江戸時代の庶民の骨」ということになっていますが、はたしてそうでしょうか?

江戸時代の大飢饉でたくさんの人が亡くなっているとされてますが、じつはマッドフラッドが原因なのではないでしょうか?

もともと梅田には、「梅田墓地」と呼ばれる墓地がたくさんあるようなので、マッドフラッドの時に亡くなった人たちの遺体なのかもしれません。

天保の大飢饉(1833年)では、20〜30万人も亡くなったとのこと。
大飢饉の後には、疫病が発生した記録がありますが、もしかしたら、これは疫病ではなくて「被爆」の可能性があるのではないでしょうか?

明治の時点で、関東の広い範囲が沼地だったようなので、それはかなり悲惨な状態だったのでしょう。


このブログ作成にあたり、笹原俊さんのブログを参照させていただきました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?