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大東亜戦争の真実 1 / 真珠湾攻撃

こんにちは、TOYOです。
私たちが教えられてきている歴史は、すべて支配者によって捏造された嘘の歴史です。

今回は、これまで隠蔽されてきた大東亜戦争の真実について、お伝えしたいと思います。


大東亜戦争(太平洋戦争)の真実

1945年(昭和20年)、広島と長崎で2発の原爆が炸裂しました。

8月6日 午前8時15分、広島原爆が炸裂、
8月9日 午前11時02分、長崎原爆が炸裂しました。

広島と長崎、2発の原爆による死亡者数は、広島31万9186人、長崎18万2601人、合計50万1787人です。
原爆により、これだけの罪のない人々が亡くなっています。

そもそもこの大東亜戦争の始まりとは一体何だったのでしょうか?

大東亜戦争は、1941年12月8日の対米英宣戦以後の戦争に対し、欧米諸国の植民地支配下にあったアジア諸国を解放して「大東亜共栄圏」を確立することが目的でした。

中国や東南アジアへ軍隊を進めた日本陸軍は、ディープステートであるアメリカ・イギリスなどに支配され、奴隷のような虐げられた生活に怯えていた東南アジア諸国の人々を開放しました。

※マレーシアの学校では、日本がアジアを解放したことを教えているようです。

日本がフランス領インドシナの南部にまで軍を進めると(南部仏印進駐)、アメリカは態度を硬化させ、日本に対しフランス領インドシナ、そして中国からの軍の撤退を強く要求し、石油やくず鉄の輸出を禁じる経済制裁を発動したのです。

石油の7割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとっては、経済的な打撃と同時に、艦隊や軍用機が動かせなくなるため、軍事的にも大きな打撃を受けることになります。

海軍の作戦計画を担う軍令部のトップは、このまま石油がなくなれば艦隊を動かせなくなるとして「むしろこの際、打って出るのほかなし」と昭和天皇に伝えました。

しかし、この大東亜戦争の真実は、アメリカと日本が争って戦っていた戦争ではなかったのです。

戦争とは?

一般的な日本の方々は、「戦争」は2つの国同士が争って起こっているものだと思い込んでいるようですが、それは完全な間違いです。
戦争は国同士が争って起こっているのではありません。
自らの金儲けのために戦争を行わせている者がいるということです。

それが、ディープステート、またはカバール (イルミナティ) と呼ばれるユダヤ金融資本のグローバリストたちです。
すべての国の政府は彼らの支配下にあります。

連合国・枢軸国といった対立構造の戦争劇を作り出し、2つの国を争わせ、両方の国に武器や薬を売ることで財閥にまでのし上がってきたのが、ロスチャイルド家とロックフェラー家です。
戦争をする国同士は、お互いに協議の上で戦争をしています。
どちらの国が敗戦するかは、戦争前に取り決めが行われています。

大東亜戦争は、天皇が敗戦を約束した上で行われた戦争です。

ご存じの方も多いと思いますが、天皇や日本政府の政治家たちは日本人ではありません。帰化人です。
そして彼らはディープステート (DS) です。日本人の命を大切にしようなどとは、初めから思ってはいないのです。

真珠湾攻撃

太平洋戦争は日本が真珠湾を攻撃したことを発端に始まったとされ、他国を侵略してきた日本国こそが間違っていたと学校で教えられました。

しかし、学校で習ってきた歴史はすべてディープステート (闇の政府) による捏造です。
日本は、欧米に侵略されたアジアの国々を開放し、また自国を守るための
”自衛戦争" をしたのです。

昭和16(1941) 年12月8日、日本軍によるハワイの真珠湾奇襲攻撃から始まりました。

山本五十六元帥海軍大将

連合艦隊司令長官・山本五十六の決断によるものとされています。

日本軍はイギリスの植民地であったマレー半島、アメリカ海軍の基地があるハワイの真珠湾を奇襲し、アジア・太平洋の広大な範囲を勢力圏に収めていきました。

日本の航空部隊がハワイ真珠湾にあるアメリカ軍基地に対して行った奇襲攻撃で、2400人あまりのアメリカ軍将兵と民間人が亡くなったとされています。

真珠湾攻撃は、じつは、アメリカの軍事会議で決定されたことです。
"日本にどうやって最初の一発を打たせるか" が話し合われました。
そのため、真珠湾には廃棄寸前の古い戦艦が並べられていたのです。

さらに、真珠湾攻撃は米軍機を使ったロスチャイルドの偽旗だったのです。
米軍は、零戦に見立てて塗装された "グラマン機" を使用しました。

この真珠湾攻撃をきっかけに4年8か月に及ぶ大東亜戦争 (太平洋戦争) が始まりました。
真実はあまりにも酷いですね。

二・二六事件と大東亜戦争開戦

二・二六事件の首謀者は当時、あまり軍部や国会に対し、権威も権力も完全ではなかった、若い昭和天皇 (34歳) ではなく、海軍トップの伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう、当時61歳)で、二・二六事件の計画を10年前から立てていたのです。
それは山本五十六らを使い、海軍主導で戦争を初めさせ、最終的には、海軍の象徴の大和の爆破で、海軍の壊滅を図り、最終的には、広島・長崎原爆で陸軍の息の根を止め、日本軍全体の壊滅を図ったと思われます。

天皇一族の天皇閨閥、天皇財閥らは自分たちの利益のために、世界支配のカバールと一緒に、日本、アジア、欧米の国民も含め、まるで羊のように殺しているのです。
そして、新たに軍隊の自衛隊を作らせ、また、武器開発、製造に国民に借金を負わせ、儲けるのです!

世界初の核実験

1940年、Nature に掲載された日本の核実験は、1939年、戦艦大和を使った大阪での核実験でした。

世界初の核実験は1939年3月1日大阪府枚方市で行われました。

※トリニティ実験が世界初の起爆というのは日米英3国による虚偽でした。
理論面だけ記述されたマンハッタン計画では30世紀になっても完成できないようです。

日本が原爆を開発した!!

天皇による終戦工作の人工地震と世界初の日本製広島原爆地上起爆成功と北朝鮮でのチッソの原爆開発‼️|アトランタ紙の記事より

広島と長崎に大被害を与えた原爆は、日本の東京大学で開発されました。
広島の原爆爆破で、日本製広島型原爆の開発に成功していました。
原爆・原発製造の特許権は日本の裕◯天皇です

その原理を隠すために行われたのが、「日米主導の核不拡散条約に関する日米共同声明」です。
ミサイルも嘘、大規模戦争を防ぐための方便だったのです。

起爆装置の肝は富山藩の花火技術(硝石乳酸菌培養技術)の応用
※理研の○和発酵が実施。

表題は「高速中性子によって生成されるウランの核分裂生成物」とあります。これは、核実験が行われたという意味です。

核実験は近衛文麿首相の計画、原子爆弾の開発は湯川秀樹氏です。

原爆製造の中核は理研でした。理研という組織は、まさにイルミナティの代理組織そのものでした。小保方さんのスタップ細胞の騒動も、全て説明がつきます。

日本で原爆を開発している槌田敦さんは理化学研究所の研究員でもあります。
槌田さんはこのように語っています。
「大きな原爆なら作れます。しかし、飛行機で運ぶことは重くて不可能でしょうという提案。」
そして、仁科 (芳雄)、武谷 (三男) が作った原爆と一緒のものが広島原爆と言っちゃってます。

「戦前、理研の仁科・武谷原爆はウラン10%濃縮で使えた。これに水を加えると立派な核爆発になる。実際に核爆発したのは800グラム。」

明確に、「水で爆発させる原爆が日本で開発されていた」と述べています。「水が入ってきたら爆発する。これが原爆の規則的な考え方。」ということのようです。

さらに、『日米がもっとも隠しておきたかった事は負ける役を演じることになった日本が自ら原爆をしかけ、あたかも仮想敵国から落とされたかのごとく装うことである...』
「広島で使われたのは、このウランの大砲爆弾だった」
「五式十三糎高射砲は広島でも長崎でも配置してあったろう。これに10%濃縮ウランをつめ、水をかけて地上起爆に成功したということだろう。
別の見方では沈没前の大和の製造段階の46センチ砲が使われた可能性もある。大和が地上起爆の実験台になったとの記述もあるし、あれだけの巨艦船が真二つに割れることは考えづらい。」

※私見:ウランの大砲爆弾を使ったとすると、発射場所は江田島あたりが海軍の研究施設もあり、戦艦大和の主砲の最大射程離も42Kmより、広島市は十分な射程距離内であり、かつ山のおかげで海軍の呉港にまで影響はないので、候補地として、最適なのかと思った。

上記の発言の中の「平和利用の濃縮ウランに水を加えるだけで核爆発を起こす」と言う事実は、まさに核爆発寸前までいった日本史上最悪な臨界事故を起こした東海村JCO臨界事故(バケツ臨界事故)でも実証されてしまいました。

https://rakusen.exblog.jp/26284880/

サイクロトロンの完成

大阪帝国大学は、すでに禁野火薬庫爆発 (1939年) より前の1937年、
高速中性子を照射できる「サイクロトロン」を完成していました。

当時、原爆を起爆可能な技術は日本だけが開発できていました。空中起爆できる技術など、世界中どこにもなかったのです。

当時の技術は、最先端のサイクロトロンから中性子を加速させて打ち出し、ウランにぶつけて爆発させています。
つまり、「空中から落として爆発させることは不可能だった」のです。

じつは、ウランやプルトニウムは高速中性子で起爆するのです。
この高速中性子は、手のひら大の面積につき、2秒に1個の頻度で空から降り注いでいるのです。

しかも、物理的な大きさに関しても、高速中性子で起爆させないように減速するには原発のようなプールが必要です。
原発の燃料棒をプールに浸して中性子線を防いでいるように、かなり大きな水の隔壁をもった原爆格納容器が必要であり、飛行機に搭載するのに、とても通常の大きさで収まる大きさや重さではありません。

中性子は航空機も貫通してしまいます。したがって中性子の遮蔽には、水素原子を多く含む水やコンクリートの壁でなければなりません。

そもそも、原爆を飛行機で運ぶには、宇宙からの中性子線の影響を受けるので、無理なのです。

米国が、空から降り注ぐ100MeVもの高速中性子を遮蔽する水以外の遮蔽材を持っていないことが世界中にバレたのです!!

日本の原爆開発は岩手県で行われていたようですが、岩手以外に
北朝鮮南部で極秘に開発され、終戦間際に最初の核実験が行われたといわれています。

日本の意向を受けてキッシンジャーが日本の核兵器技術を世界中に販売しました。
※原爆開発国の日本の技術でなければ原爆は起爆せず、起爆装置は100%日本製。

アメリカが、もし原爆を開発出来ていたなら特許申請をするはずですが、
特許申請の資料はどこにも存在しません。
アメリカは原爆の開発など出来なかったのです。
飛行機に積む以前の問題ですね。

原爆は飛行機から投下されていなかった!!

「原爆は飛行機から投下されていない」という証言があります。

8月6日、広島上空約500メートルを、紫電改で飛んでいた元海軍航空隊、本田稔少尉の証言です!
「広島市内が見えていた時、爆風が下の方から来て吹き飛ばされ、舵がしばらく取れなくなった。そして前を見ると真っ白い光る雲が上がっていて広島市内が消えていた。
私はエノラゲイ・B29を見てませんし、空中から爆弾が落ちたとは思ってないんですよ、下(地上)から爆風が来たので…」

本人証言でなく、書き起こしのテロップ扱いですが、本田さん証言に関する
あのビデオ証言で出てこなかった表現があるこんなユーチューブビデオがありました。

広島では紫電改は飛行高度5000メートルだったこと、弾薬庫か何かが大爆発したのか?とか、長崎では15キロ離れた大村にて昼食中で食堂の天幕が激しくゆれた…
との、ビデオ証言にない表現や距離がでています。

彼が上空5000メートルで眼下の広島市内をしっかり把握しています。
お城の姿も…
投下したとされてるB29は投下時に高度9600メートル。
単純に考えて、紫電改の上空4600メートルにいたということになります。上空にいたとしたら、雲などなければ彼の視力なら目視可能。
下の広島市外より近い距離です。
コメントには広島上空は抜けるような青空と記されていますね。

ヴァン・カーク氏

B29 エノラゲイ最後の乗組員の証言(広島原爆投下機)

B29 エノラゲイの乗組員で最後に生き残ったヴァン・カーク氏は、日本の取材AERAに対して気になる意味不明の言葉を残しました。

その言葉とは「物事には諸説ある。一部は事実だし、真実でない情報も紛れ込んでいる。実際に何が起こったかの詳細は、あなた方は決してみつけられはしないさ」と・・・

これはB29-エノラゲイが広島に原爆を投下したのではない秘密の暗示だった。

日本人が知らなくてはならない本当の昭和史
http://kisarazu.org/?page_id=35

「大東亜戦争の真実 2 / 原爆と終戦」へ続く…

最後までご覧いただき、ありがとうございます。



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