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ひかりとのぞみ

ある居宅支援事業所に、とても仲の悪い2人のケアマネジャーがいました。

1人は利用者の言うことをなんでも
聞く御用聞きケアマネジャーの
福島ひかり。

もう1人は利用者に言うことを聞かせる
唯我独尊ケアマネジャーの
山口のぞみ。

性格も考え方も正反対な2人は
とっても、とっても仲が悪いので、
もう何年も朝の挨拶をする事も、
目を合わせる事も、
相手の名前を呼ぶ事もありません。

電話がかかってきてもお互いに取り繋ぐ事はなく、不在と伝え、連絡があった事も伝えません。
足を引っ張りあい、もちろん仕事の効率は悪く、チームワークなんかありませんし、職場の空気は混沌としており、天井の低い屋根裏部屋のように居心地悪い職場なのですが、どちらも職場を辞めようとはしません。
先に辞めると、負けたように感じるのでしょうか。
おたがいのちっぽけなプライドを守るため。意地と意地との戦いを日々続け、我慢比べ相手のミスを虎視眈々と狙いあっています。

お互いに意識しているのに、意識していないフリをしているのです。

そんな2人は難病や独居老人、ターミナルの方など困難事例はなすりつけ合い、福祉用具利用だけの利用者は奪い合うので、他の事業者からの評判は下がるいっぽうです。

御用聞きの福島は、利用者からの評判はとてもいいです。
福島は利用者が欲しいと言えば手すりをつけ、トイレが不安と訴えがあればポータブルトイレを購入し、お風呂に入りにくいと言えば訪問介護を調整します。
利用者に言われた事を手配するだけでそこに福島のアセスメントや考えはありません。
その事が、唯我独尊山口はとても気に入りません。

しかし、唯我独尊山口は利用者から数え切れないほど、担当変更をされています。
山口は元看護師、知識と経験はそれなりにあるがそれが仇となる事が多く、
自分の経験を過信し利用者や介護者、他の事業者に講釈垂れ流してしまいます。自分の考えたステレオタイプランを押し付けるため、融通がまったく効きません、クレームが出ても全く聞く耳を持たないのです。いったい誰のためにケアプランを立てているのでしょう。
その事が御用聞き福島は気に入りません。

とてもまだまだ暑い日が続く9月、いつものように空気の悪い職場に福島が出勤した際、机の上にメモが置かれていました。

メモには宮城さんから連絡ありと書かれていました。

宮城さんは御用聞き福島の元利用者の方です。要介護4、トイレやお風呂など介助が必要ですが、認知症などはなく自分の意見をはっきりと言う方で、娘以外に世話をされる事を嫌がり福祉用具以外のサービスは利用していません。

御用聞きの福島は宮城さんの娘に世話してもらっているからサービスは使わないと言う意見だけを尊重し何年間もケアプランを変更する事なく過ごしていました。モニタリングも宮城さんに話を聞くだけで、コロナが流行してからは宮城さんに電話で変わりないですかと確認するだけでした。しかし、その日は突然やってきました。娘の介護負担はもちろん多く教師の仕事も辞め夫や子どもの世話もあり限界でした。
夫からは施設に入れろと促され、宮城さんから施設には絶対入らないと伝えられて誰にも相談する事も出来ず、子どもたちと過ごす母親としての時間を削られる。娘として宮城さんの介護をする日々。周りからは介護してえらいねと、わたしには出来ないよ、頑張ってと言われ、逃げだしたいのに逃げ場を奪われている様なまわたでくびをしめられている感覚に苛まれ、ついにコップから水が溢れるように、張り詰めた糸が切れるように、娘の心は壊れてしまいました。

そして、娘は宮城さんの部屋の窓から飛び出し、この世から、周りのプレッシャーから、介護負担から宮城さんから逃げる事ができました。
宮城さんには同居している息子も居ますが、無職の引きこもりなので介護力は期待できませんでした。

それでも、宮城さんは介護サービスの利用を希望しません。宮城さんは自分の両親も夫の両親も家で亡くなるまで介護をしたので介護は子どもや家族がするものだという信念があったのです。

しかしながら、信念だけでは生活出来きるはずもなく、施設に通いながら自宅に訪問もしてもらえるからと小規模多機能型居宅介護を勧め、福島は宮城さんを説得しましたがなかなか、納得して貰えません。ケアマネジャーが別の人になるから嫌だと言われて、福島は担当が替わっても変わらずに会いに行きますから大丈夫と出来もしない約束で、誤魔化し施設のケアマネージャーへ宮城さんを丸投げしました。

息子が自宅での介護は無理だと言い出し結局1ヶ月のうち28日以上宿泊サービスを利用し自宅に帰ることなく施設へ入所したような生活をしていました。

宮城さんは福島へ頻回に電話を掛けていたが、コロナだから、いま忙しいからなどと適当な理由をつけて福島は対応しませんでした。もう担当では無いからと、冷たい対応をした結果、宮城さんからの連絡は次第に無くなっていきました。

そして、一時的に自宅に帰った日に熱中症となり、福島に連絡したが繋がらず、小規模多機能型居宅介護施設職員が衰弱した宮城さんを、発見し緊急入院となりました。

チャンスを待っていた息子は、手際よく施設入所の手続きをし、宮城さんには拒否する気力もなく、育てた娘、息子に世話してもらえず、信頼していたケアマネジャーにはハシゴを外されいままで貫いた信念を折られ、施設入所となりました。

この日以来、御用聞き福島は変わりました。利用者だけで無く、家族や環境などアセスメントにも力を入れるようになりました。

唯我独尊山口にもアドバイスをもらい、関わる人みんなさんが幸せになれるケアプランを作成出来るように努力を重ねました。

ある心地よい風が吹くき山が色づき始めた10月、福島へ担当して欲しいとご指の名連絡が掛かってきました。
連絡の相手は宮城さんのお孫さんでした。宮城さんが癌の末期で自宅での見取りを希望しているので、自宅で生活する為に力を貸して欲しいという依頼でした。

福島は二つ返事で快諾しました。
以前の福島なら二の足を踏んでいたでしょうが、いまは頼れる仲間たちがたくさんいます。
訪問診療してくれる医師や看護師、訪問介護や福祉用具事業所などそして、相談できる山口がいます。

宮城さんは痩せており、表情も無く以前の宮城さんとは全く別人のようでした。そして、認知症となり福島の事をまったく覚えていませんでした。
内心、福島はホッとしました。宮城さんを小規模多機能型居宅介護に入れた後ろめたさがあったのです。
後ろめたさから逃れるように福島は一所懸命、誠心誠意、宮城さんもお孫さんも関わる人たちがみなしあわせに過ごせるように対応しました。

しかし、一つ問題がありました。
宮城さんの息子は猛反対です。
認知症になって何もわからないのに、わざわざ、めんどくさい思いをしたくないと福島へ伝えてきました。

福島は息子さんの目をしっかりと見て、ゆっくり穏やかな声でこう伝えました。

「息子さんにはご迷惑をかけませんのでご心配はいりません。娘さんの家でお孫さんと生活するように段取りをしています。宮城さんはいままで、家族の最後を共に過ごしてきた人です。宮城さんの最後の日は家族の見守る中で迎えたいとはずだと私は確信しています。」

宮城さんの意思を確認する方法はありませんが、宮城さんの信念を福島は聞いていたので覚悟は決まっていました。

息子は福島の覚悟に萎縮し黙って頷く事しかできませんでした。

施設を退所し娘の家で生活を開始しました。孫さらにひ孫も集まりお正月をゆっくり過ごし、誕生日会も関わるスタッフさんと行い幸せな日々をおくら事ができました。


桜の花が満開となった3月の暖かい日に宮城さんはお孫さんに看取られ亡くなりました。

宮城さんが亡くなってすぐ息子は宮城さんの遺言書を家中探しまわり、宮城さんの日記を見つけてしまいました。

日記には娘への感謝の言葉がたくさん書かれていました。介護させて申し訳ない気持ち、しかし一緒に過ごすことの出来るしあわせな気持ち、自分自身も出来ることは頑張らなければという決意の気持ちが宮城さんの言葉で書かれていました。

そして、いつも日記の最後の行には息子への言葉が書かれていました。
「あの子はまだ、本気出してないだけ」
「やれば出来る子」
「信じてる、あの子の底力を」
「やまない雨はない」
「明けない夜はない」
「わたしたちの子だもの絶対大丈夫」
「2階から足音が聞こえるだけで十分」
「返事がないのは元気な証拠、便りの無いのは良い便り」
「親の思い子知らず、子の思い親わからずお互い様々」
「息子がいるから、夜も安心」
「わたしより長生きしてくれればそれだけで孝行息子」
読みながら、息子は何十年かぶりに心から涙が溢れました。涙と一緒に心が柔らかくなって、身体の芯から温かくなっていくのを感じ宮崎さんに会いたくなりました。

そして、お葬式は息子が喪主を立派に務め宮城さんとのお別れをしっかりとしている姿見せてくれていました。

福島はみんなしあわせそうでよかったと安心しました。

そんな福島を間近で見ていた唯我独尊山口にも徐々に変化が見られるようになってきました。
これまでの唯我独尊山口は自立支援を名目に出来るとは1人でやってもらうスタイルでした。
どれだけ時間が掛かっても、自立支援の名の下にヘルパーや家族に着替えや移動など手を出さないように伝え、体力が落ちてきたり、認知面の低下が感じられれば問答無用でデイサービスやデイケアへ通わる。
リハビリしないと寝たきりになるよ、認知症になるなどと不安を煽ったりしていましたが、最近では利用者の意見を取り入れ、本人に合った施設やサービスを調整し、本人や家族が理解し納得できるように丁寧な説明をするようになりました。
その結果、担当を変えてくれという人はいなくなり、感謝されることが増えました。山口も利用者や関わる人たちが幸せを感じられるケアプランを作るように心がけるようになりました。

仲の悪かった2人ですが、徐々に雪溶けしお互いの能力を融合し協力しケアマネジャーとして信頼と実績を深めて行きました。

そして数年経ち、地域で一番頼りがいのある事業所と評判となりました。


※このおはなしはフィクションです。
実在の人物や団体などとは関係ありません。











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