魂目当てしかない
昔、Twitterで、「『私のこと体目当てなんでしょ!?』と言うが、『魂目当ての方がこわい』」というツイートを見かけたことがある。
初出、こちらのツイートで大丈夫だろうか。見返したら2019年のツイートだった。その時から思っていたが、もう5年近く、私は「魂めあてしかない」と度々思っているということになる。
孫引きになってしまうが、雨宮まみの『女子をこじらせて』についた上野千鶴子の解説について、以下のようなツイートを先ほど読んだ。
2024年の私は、その時思った。「やっぱり魂しかなくない!?!?」と。どうして私たちはどちらにしても傷つかなければいけないのだ、と思う。傷つきたくないし、尊厳がある。
私の言葉はうまく届かず、存在も魂も、雑に扱われていることがたくさんあった。私はそれが、ずっと悔しくて仕方がない。理不尽前提なのが人生だから、諦めなければいけないだろうか。でも、私を傷つける側に、諦めた状態で接する方が失礼だろ、とも思っている。わたしは尊厳の話が通じる相手だと、そう思いながら、この文章を書きたい。女体が、舐められている。例えば、高校の卒業式の時に、友達の男の子に「お前何カップ?」とLINEで送られて、「答えたくない」と、答えなかったら、「死ねブス」と言われたりする。本当に嫌で嫌で、苦しかった。「こんなもんか」と思ったけど、こんなもんでいいはずがない。
それは魂に対する冒涜だ。私は腹が立つ。私は、胸に当てがっている布切れのサイズではない。もっと生身で生きていて、その人ともいろんな言葉を交わして、同じ時間を過ごしたのに、なんで、最後の最後に、個体値のように胸の布切れのサイズを聞かれて、それに回答しなければいけないのか、しかも答えないと罵られなければならないのか、わからない。
なんで私が、こんなに、舐められなければいけないのかもわからない。まったくもって不愉快で、そういうことは、当時は、誰も助けてくれなくて、全ては野放しだった。なんでそんなに、意地悪なんだろうと思った。
誰かを雑に扱った数が、扱った側の人の尊厳を高めるのであれば、そんなものはドブより汚いではないかと思う。恥を知れ。まともに話をしろよ。馬鹿で無教養で下劣で、人間のこと舐めるのも大概にしろよ、と思う。
魂レベルで関わりたいのに、なんでそんなに頭も心も腐っているんだと思う。腐ってるのはその人も自分自身を、その腐った眼差しで扱っているからなんだろうな。あなたは自分を何で測って、何で死ねブスという言葉を自分に向けるんでしょうか。お互いに傷つくだけではないかと思う。
ちゃんと話を聞いてもらいたい、魂レベルで人と関わりたい。誰かと話してる時に、ふいに訪れる一瞬の心の重なり合いが好きだ。全く別の個体なのに、心の底から今日は伝わったなって思う時が好き。
欲望を向けられなくても、向けられても、という話から降りて、なんかもうちょっと真面目に人と話してみたいと思う。真剣であることは別にこじらせではないし、たじろいでるのは、納得してないからであり、納得してないというのは、ひとつの確固たる意見まで生成されてないとしても、意思表示なのだ。
"こじらせて"いるという言い方は、自分の尊厳に対する違和感を明示している側が、すこし、自虐的だったり、卑屈になっている言葉でもあると思う。ある一時期その言葉は違和感を抱える人たちの居場所になったと思う。私は雨宮まみが好きで、文章を読み返すが、美しい文章だなと思う。私はこちらの方が正気で、彼女を"こじらせ"させた外側の方が、何かに罹患して"こじらせ"ているのではないかと思う。
病んでいるのはどっちだよ。私はずっと子どもの時から変わっておらず、とっても不愉快なことばかり。なんで人間のこと舐めくさって、心のこと置いてけぼりにすんだろうか。必要とされたい、愛されたい、愛したい。誰かのものといわれてみたかったり、誰かのものなんてごめんだと思う。安心したいけど、不安になる。この世にすでにある関係性に収まることの誇りと、自分で答えを見つけ出した誇り。欲しいものがわからない。雨宮まみが生きていたらいつか、対談をすることが夢だった。私たち、どこへ行けばいいのでしょうか?。雨宮まみは、この世にいないけど。
雨宮まみが40歳の誕生日に、資生堂パーラーでパーティをして、1人でウェディングドレスを着て、『アナと雪の女王』の『Let it go』を歌って踊ったことを思い出す。こんなに美しいものを、私は知らない。
この記事が掲載されたのは亡くなった後のことだった。
雨宮まみの死因は、公開されてないので、私は知らない。知ることもない。
"こじらせ"とは、納得いってない、尊厳に対する抵抗の姿のひとつではないか。雨宮まみは、納得がいかなかった。この世に既に並んでいるものじゃ満足できなかった。女の向かう先にある、トロッコ問題みたいな理不尽を、3番目の道をつくって歩いて行った雨宮まみを、私は尊敬している。
あなたのことを想って文章を書いていたら、ベッドの上で涙が出ました。
雨宮まみが歩いたことでできた道は、まだ獣道だ。とっても重たく、そしてまばゆいものだと思う。一度誰かが歩いた道はのこる。雨宮まみが、雨宮まみとして駆け抜けた生が、私の人生の中で確実に意味のあるものになっていく。私のことを知らないはずの、彼女の生身の生き様が、私の生き方を明るくしていく。
40歳以降の雨宮まみがこの世にいないことは、そういう生き方は"無理なこと"だと示してしまったことなのではないかと、考えてしまう時もある。
尊厳と美しいものを大事にしていた雨宮まみのことを、私は、きれいだな、と思う。きれいだな、と思う心が私の中にある。きれいなものを見たことがある。その感性が、私の生き方をもっとあきらめなくていいと、励ましてくれる。
雨宮まみの魂が、本をひらけば、彼女のブログを見れば、そこにある。私はこれを美しいと思いながらこの先も生きていくし、常に3つ目の自分の道を探したいと思う。大好きだな、と思う。
雨宮まみは元々AVライターをしていたので、かなり"身体目当て"の世界にいた人だ。だけど、上野千鶴子が解説で指摘していたのだが、AV監督の彼女にはなるが、自分は絶対に女優にはならないのだ。そのあたりの塩梅について考える。狂おしいほど自分にはない女らしさを持っていて、なれない憧れの対象、と、AV女優を形容するが、彼女は常に「まなざす側」でもあった。彼女の尊厳が、そうさせなかったのではないかと思う。
AVに携わるが、「まなざす側」の女として文章を書く。 これも第3の道だ、と思う。雨宮まみは迷いながらも、女としての尊厳に執着していたように、私は見える。
いちいちこだわらない方が、たぶん、生きやすい。私たちが、女として"こじらせ"させられるのは、外界が尊厳について蔑ろにしているのが悪いし、尊厳を重んじることは"こじらせ"ではないと思う。
ただ、もし彼女が"こじらせ"ているとすれば、それは女としてではなく、生きることそのものに対してなのではないかと思う。すでに用意されたメニューやコースのどれでもないものが欲しい。自分は何が欲しいかはわからなくても、これが欲しくないことはわかる。
私はよく、『千と千尋の神隠し』ラストで、千尋の前にブタが並べられ、湯婆婆に「この中から豚に変えられた両親を見つけろ」と言われるシーンを思い出す。千尋が、「この中に両親はいない」と回答すると、「大当たり〜!」と湯屋のみんなが祝福してくれる。千尋は彼らに手を振り、橋を渡って人間界に帰ってゆく。
幼い頃、このシーンを見て「そんなのアリかよ!」と思った。「出題する側も、答える側も、ルール違反すぎる!」と思った。だけど、並べられたものに対して、「この中に欲しいものがない!」と言えることは、自分の感覚に基づく確信なのである。その確信こそが、別の答えを作るための糧になる。
"こじらせ"ている人には、違和感を感じる力がある。尊厳がある。"こじらせ"という言葉は、「欲しいものがここにはない」と思った人たちにとっての、雨宿りの場所でもあったのではないか。だって、どう考えたって"こじらせ"ていた方が、「大当たり〜!」に近いじゃないかと思う。
自分の人生に真剣であれ。尊厳に真摯であれ。
やっぱり私は、魂にしか興味がないようだった。
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