夢想の徘徊

 哲学とは何か?
 というのも、われわれ哲学思想研究会は、その名が示す通り「哲学」を看板に掲げた学術系サークルなので、この問いは最初に取り上げるテーマとしてふさわしい、と思った次第であり、故に、今回はこの問いについて多角的にアプローチする。

 そもそも、この問いは問いとして成立しているのだろうか?
(今回はこういったメタ的な記述を多用したい。また、たんに一つの問いを深く掘り下げるのではなく、脇道に逸れて、その寄り道で見える風景を味わいつつ、かつルートを決めずに思索を行いたいので、一緒に楽しんでいただけたら幸いである。)
 さて、問いが成立しているとはどういった事態を意味しているのだろうか。そこで私は無意識に 問い→答え という単純な図式を思い描き、いつも持ち歩いている『事典哲学の木』で、参考になりそうな項目を参照してみた。参考にならなかった。しかし、面白い。面白かった。
 『事典哲学の木』に ”考える” という項目があり、野矢茂樹先生が担当なさっている。その項目は、軽くストーリー性を持たせつつ筆者の思考の筋道(考える)を追わせるという形式がとられている。内容としてはまず、思考は心的行為なのか?という問いが考察される。そこでは、「AまたはB。しかるにBではない。それゆえAではない」などという奇妙な論理(?)を事例として用いて、心的行為はそれ自体では思考ではなく、心的行為に伴う意識状態ないしその推移こそが思考と呼ばれうるものとされる、とし、しかし、と続け、意識状態の考察に移り、先の論理を持ち出し、心的行為と意識状態の論理構造が合致していなければ思考とは言われないという趣旨のことを述べる。そしてそれは心の中で語るということに他ならないとする。そして筆者は、それが記述や口述と異なり「思考」としての性格を持ちうるのはなぜか、という考察に進む。「内語」(≠心の中で語る)というかたちで思考があらわれる場合もあろうが、それは行動に現れる形の思考に寄生した形態にほかならない、と言う。そして筆者は続けて、

子供は、紙の上で計算を学び、声に出して推論することを学ぶのである。いったい、筆算より先に暗算を学ぶ子供などいるであろうか。

『事典哲学の木』. 講談社, 2002, 202p.

と述べている。
(※よく思考の展開を追って読まれたい。
心的行為と意識状態の論理構造の合致が思考(という仮説)・・・心の中で語る
→その「心の中で語る」が、(心的行為と意識状態の論理構造が合致しているはずの)記述や口述と異なり、「思考」と呼ばれるようなものであるのはなぜか、と問うている。
→(俗に「脳内」云々と呼ばれるところの)「内語」というかたちで思考が現れる場合があるだろうが、それは”行動に現れる形の思考に寄生した”(心的行為と意識内容の論理構造の合致した)思考形態に他ならない。)

 これ(主に筆算と暗算の関係性で筆者が言わんとしていること)に関しては、「発生論の誤謬」ではないだろうかという疑念があるが、論理学を専門にしておられる野矢先生がそのような初歩的な誤謬を犯すということは考え難いのである。
 ところで、この「発生論の誤謬」であるが、これは果たして本当に誤謬なのだろうか?改めて、Wikipediaにある発生論の誤謬を見てみよう。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
発生論の誤謬英語: Genetic fallacy)とは、現在の意味や状況を無視してその出典や出自だけを根拠として結論を導くこと。論点のすり替えの一種。現在の状況の変化を見過ごして、過去の状況における肯定的または否定的評価をそのまま保持するものである。
したがって、この誤謬は主張の価値を評価できない。よい論証の第一の評価基準は、前提から主張の真偽性に対して結論を導き出せるかである[1]。たとえ問題の起点部分に限れば真実であり、問題がなぜ現在のような形になったのかを解明する助けになったとしても、論議全体の価値とは無関係である[2]
Oxford Companion to Philosophy によれば、この用語の起源は Morris Cohenアーネスト・ナーゲルの著書 Logic and Scientific Method である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 まず試しに、含みを込めた対応関係に留意しつつ、先に私が疑念を抱いた箇所を、発生論の誤謬の構造に当てはめてみよう。

現在の状況:(子供が暗算を学べている。)心的行為なしに内言として思考が現れている。
その根拠としての出典や出自:(子供が暗算を学べるのは筆算を学んだからである。)内言としての思考が現れているのは、心的行為を必然的に含むところの、心的行為と意識状態の論理構造の合致としての「心の中で語る」、ということを必要とする。
結論:(※私は反語と解釈した)(筆算より先に暗算を学ぶ子供などいない。)内言としての思考が現れるのには、心的行為を必要とする。

 どうだろうか?まさにWikipediaの発生論の誤謬で指摘されている通りの誤謬が露呈したようにみえる。「しかし」、と私は言ってみる。しかし、私の批判は論理的に正しいのか。
(ここにおける「しかし」のように、"敢えて"差し挟むところの言葉、また流れる時空の中で思考の始点となるところの言葉。それは機械的に遂行される思考からは決して出てこないものであり、私はそこにこそなにか哲学をする際における決定的な重要性を感じるのである。
 余談であるが(本筋かもしれない)、こういった思考の渦に巻き込まれている時点で野矢茂樹の術中にはまっているような気がしてならない。
 ところで”流れる時空~言葉”を自分で書いていて自分で勝手に『聖書』を連想してしまい、同時的に『聖書』における時空観および時空の始まりについて問いが生じたので、考察してみることにする。まあこれは脇道に美しいあざみが見えたからふいに偶然そちらに足が向かった、とでも思って付き合ってほしい。(私はこの直前の箇所を書くまでは、仮のタイトルとして「散歩的思考」を採用していたのであるが、ここで「思考の徘徊」に書き換えた。より適切だと思ったからだ。これはもう散歩ではない。しかし、認知症の老人も徘徊しようとして徘徊を開始するわけではないだろう。至当な流れである。))

『聖書』の時間観は、通説では人間においては直線的な歴史であり、神にあっては永遠の今、というものであろう。そもそも「『聖書』における~」とは、どういうことなのか?聖書が一人の筆者が書いた書物であればこのような問いは生じなかったであろうが、聖書が特有の成立過程を有していたが故に、このような「解釈」に関する問いが生起してしまいそれが敷衍されてしまったのであろう。しかし、仮に一人が書いた法典であっても、その適用において「解釈」が必然的に為される。どうしたものか。

 さて、これ以上書くと終わりが見えないので、ここで一旦打ち切っておく。分量のある文章にしたいが、これはあくまでも挨拶なので、ここで区切るのである。この問題についてはなお考えたいと思う。


はじめまして!東洋大学白山公認サークル(学術系)・哲学思想研究会です。今回の執筆者は実質的代表者の田代剛士です。学術系サークルとしては白山キャンパス最大規模であり、活動も、志のある部員が多いこともあり、企画や方針に部員が主体性をもって乗ってくれるので、精力的に行えております。通常こういった挨拶としての団体の紹介は先頭に持ってくるものですが、記事のインパクトを考慮してこのような構成にしました。
 今回の記事は読んでいただいた通りの内容ですが、社会への視座に立った攻めた記事も書いていきたいものです。(あらゆる学的・非学的、どころか知・問い・記述の契機すらない事物、すなわちすべてのものごとに対して一切の制限を設けずに活動を行っていきたいという考えを持っているので、「哲学思想研究会」は気に入っていますが、その名称すら変更したいのです。哲学思想研究会→学問研究会→探求会→会→・・・?)故に、社会派の記事のみならず、自然科学にも射程を広げたり、面白そうなことならなんでも書いていきたいものです。

何かせん闇路彷徨う冷たさの
有為転変の塵箱なれば吾が妻は花
今日にこそ摘め


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