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四軒長屋(2) 父、会社員への転身

工場とパチンコ


 立山町から滑川市へ引っ越したわたしたちは、その後、父が勤める会社の社宅に住まいを移した。末っ子の弟が生まれたのもこのころだ。

 伊達なペンキ職人から、一般企業の工場勤務へ。
 洋服を着て仕事に通う父も、幼いわたしの目には、だれよりも男らしく格好良く映った。

 会社での父は、仕事の業績がかなり高く、上司や客先から頼りにされ、同僚たちからも大いに慕われていたようだ。周囲から将来を嘱望され、労働組合の委員長に選出されたのも、こうした人望があってのことだろう。
 もちろん、幼かったわたしや姉は、当時、職場での父の姿は知らず、すべては後日、父の口から面白おかしく語られた思い出話だ。

 わたしたちが知る父は、工場勤務が休みになると、気晴らしにパチンコや釣りに出かけ、夕方、手に山盛りの景品、キャンディやチョコレートといったお菓子、いろんな種類の釣魚を、わたしたち家族のために持ち帰ってくれる勇姿だ。
 わたしと姉は、目をかがやかせて、父が広げる戦利品の数々を見守ったものだ。父のおかげで、わが家の食卓はいつもにぎやかだった。

 このように、家族の前では陽気で屈託のない父だったが、実は、少しずつ元気をなくしていた。小学校(戦前の高等小学校)しか出ていないという学歴の低さが、順調な出世のさまたげとなっていたのだ。
 自分よりは高学歴だが、仕事の能力の低い同僚のほうが、早く、待遇が良くなっていった。

ぬぐえぬ失意


 能力主義をうたいながら、学歴を理由に給料を低く抑えられる矛盾に、父は、欲求不満を抱えていった。張り合いぬけとでも言うのだろうか、失意とストレスが昂じた父は、そのうち胃潰瘍で入院することとなった。
 祖父や親戚の人たちは、胃潰瘍はなまくら病で、体を動かさない人間が、かかるものだと父に言ったそうだ。

 学歴のない自分は、会社でのぼりつめることのできないことを悟った父は、これをきっかけに会社勤めをやめ、体を動かす仕事につくことにした。「学校出とるだけの仕事もできんもんが、早く出世すっちゃ、会社っちゃ、おもしないか」

 こうした父の苦労話を、わたしたち子どもは、家族の団欒時、茶の間の食卓で聞かされた。仕事を終えて、ご機嫌になった父が、声に抑揚をつけながら、面白おかしく語るので、わたしは父の苦労話が大好きだった。
 しかし、父の学歴を持たない引け目は、いつまでも、まといつくようで、「子どものころ、大人の誰かが、将来のために、中学に行けと教えてくれていたら」
 と、度量の大きいはずの父が、後年になっても、遠い目をして語ることがあった。

 時代や土地柄もあってか、商家の三男坊は学問が不要だと考えられたのだろうか。お金に不自由のない家に育ち、小学校では神童と呼ばれるほど賢い父だったから、本来、進学は容易いはずで、成人してからは、相当くやしい思いをしたに違いない。

 父の人生と心のうちを思うと、いまさらながら、父が愛おしい。

(写真はイメージです)

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