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「遠さ」を志向してしまう

 こんにちは。銀野塔です。
 南野薔子名で一人文芸倶楽部Tower117より発行した五行歌冊子『万華鏡天象』に、栢瑚五行歌部仲間の水源純さんが素敵な文章を寄せてくださいました。感謝です。ぜひこちらのnoteを読んでいただけましたら幸いです。なにか私はすごくいいものを出したのではなかろうかと思ってしまうのでした。

 そして純さんが書いてくださったことと、私が最近考えてきたこととつながる面があるので、そのことについて書いてみたいと思います。
 
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 水源純さんが私の五行歌冊子『万華鏡天象』について「星座の間柄」というタイトルで文章を書いてくださった。私の歌集にあらわれている人間関係のあり方が星座のよう、距離を保って物語性を持つ、という。
 近年、私の詩歌にはなにがしかの「遠さ」がよく出てくる気がするなあ、と思っていた。なんとなく自分の志向性として遠い存在が好きなのだ。子どもの頃から星を見るのがわりと好きで宇宙のことなど素人レベルでだが興味を持ってきたが、これなど「遠い存在」の典型である。
 そして、人間関係についても、近いより、遠い方が得意だな、とここのところよく思う。
 人間関係、近くなる、親しくなることはよいことだとして一般にはとらえられていると思うし、実際によいことである面も多々あるだろう。ただ、近いと遠慮がなくなったりなどもあって面倒なこともありがちだとも思う。遠いと、いわゆる親しみには欠けるだろうが、距離感が保たれる分、近い関係では見えにくいことも冷静に見えたりもする。
 なんとなくだが、人はそれぞれ、どのくらいの距離感が一番得意かというのが違っている気がする。大まかにいって近い関係が得意な人と、遠い関係が得意な人がいるような気がする。もちろんどちらもうまくこなせる人もいるし、どちらも苦手という人もいるだろう。ただどちらもまんべんなくこなせるというのはかなりのエネルギーと認識力がいる気がするので、多くの場合どちらかに偏っているような気がする。だから、人によっては近い関係でのやり方を遠い関係にも持ち込んでしまったり、逆に近くなった方がいい人に対してもなかなか近くなれなかったりする。そういった人間関係のいろいろなバランスやその偏りが人間模様を織りなしている。
 私はありていに云えば人間関係全般が苦手な方だが、どちらかといえば明らかに「遠い」寄りである。というか、人と親密な関係を築く能力が基本的に欠如している気がする。だから、たとえば恋愛歴はごく少ないし、結婚しなかったし子どもを持つこともなかった。そうしなかったことで「私はそういうことができなくてさびしい」という感覚が自分でも意外なほどなくて、むしろ年を経るほど「苦手なことを無理してしなくて正解だったな」という感覚が増してきた。結果的に少子化に貢献して申し訳ないが。私が「結婚とか出産とかぜひぜひしたい!」と思ったところでできたかどうかは別問題だが。いやもう、新たに誰かと生活を共にするとか本当に無理。ましてや、自分にある程度性質が似通っている確率が高い自分の子どもなぞ、恐怖でしかない。
 実生活では、一時期一人暮らしをしたが、それ以外はずっと実家暮らしだ。実家の家族は生まれたときから一緒にいる存在ではあるのでそれなりに一緒に暮らせてはいるが、正直なところ、家族との関係というのも私は得意ではない。下手に遠慮がない分、自分のイヤなところが関係性の中で出てしまう部分も大きいし。ものすごく仲が悪いとかではないが「家族っていいものだよね」という言説に無条件でうなずくことができないくらいには屈折している。家族にとっていい家族でなくて申し訳ないなあと思いながら日々を過ごしている。
 まあ、本当、近い関係って苦手。なので、基本人との距離は保ちがち。そういうことを別にそこまではっきり自分で意識してなかった若い頃すでに「バリア張ってる感じがする」とか「隙がない」とか云われたりしてたからもともとの性質としてもそうなのだろう。オレに近づくと怪我するぜ。そんなカッコのいいものではないが、まあだいたい近づけば近づくほど面倒になる人間だと自分のことを思っている。だって自分で自分やっててものすごく面倒だからさ。
 けれど、ある程度距離が保たれていれば、まあなんとかそれなりに自分のダメなところもつくろいつつ、そこそこ冷静に対処できるから、どうにか格好がつくというか。そのことの良し悪しは別として。
 そういうところを意識すればするほど、なんだか自分の詩歌にも「遠さ」志向がますます鮮明にあらわれてきた気がする。ただその「遠さ」にこそある何かを、詩歌であらわせたらいいなあと思っている。またそういう「遠さ」志向の人間だから書ける何かというのが多分あって、そういうものを書けていたらいいなと思ってもいたり。
 
 遠さ
 だけがもたらす
 透明な陶酔がある
 たとえば星座
 たとえば君
           (南野薔子『万華鏡天象』より)
 
 ついでに云えば、私は羽生結弦選手のかなり熱心なファンとしておそらく一部には認識されているのだと思うが、これについても「遠い」関係性だからこそ熱心になれているんだろうなと思っていたりもする。羽生くんについてずいぶんいろいろと視聴したり読んだり書いたりして、ひとりの人間に対して関心を傾けすぎではないかと思うところもなきにしもあらずなのだが、ただ「云うても私は家族でも友人知人でも関係者でもないしな」と時にふっと振り返って心理的に一線を引くことができる、だからある意味安心して熱心になれるようなところがある。ちなみに、五行歌関係者の方には若干知られていることかと思うが純さんがとりあげてくださった「絶景」の歌は羽生くんのことである。
 
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 純さんの文章にお返事的なことを若干書き加えておきます。
 「万華鏡天象」は一応造語ということになるのかなと思います。最初「万華鏡回廊」も考えたのですが、それは実在するらしいので、ないものがいいなと思って考えていたら、わりと宇宙や空のことが歌にも出てくるのでじゃあ天象にしようと。
 表紙に使った写真はまさしくハンディな万華鏡を使って撮りました。金魚の歌を取りあげてくださってますが、金魚を展示するアートアクアリウム展の売店で買った、筒の外側に金魚模様がついたものです。筒の中に何かが入っているタイプのものではなく、万華鏡の外のものを中に反射するタイプのもので、手持ちの綺麗なものに向けて、カメラのレンズを目を当てる側にくっつけて撮りました。


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