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私の贅沢貧乏

 こんにちは。銀野塔です。ここのところ読んでいた森茉莉の本から思ったことなどを。
 
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 ここのところしばらく、隙間時間や寝る前に森茉莉をちびちびと読んでいた。読んだのはエッセイ、ないしはエッセイ色の強い小説である。高校生の時に、今でいうBLが友だちのあいだで流行ったこともあって『恋人たちの森』や『枯れ葉の寝床』といった耽美系の小説は若干読んだ。それ以来の森茉莉である。
 エッセイないしはエッセイ的な小説を読んで思ったことは「他人とは思えない……」であった。どういうところがかというと、自意識の強さ、うぬぼれもあるが、自分に対する辛辣なセルフツッコミも込みで、とにかくやたらと自分というものに対する意識が強いし、また自分の好悪の感覚に対するこだわりも強い。あと生活者としてはかなりダメダメなところとか。あと「私は古今東西変わらない恋愛小説を書くが、本人は、いちども恋愛をしたことがない。そういう気持ちになったことはあるが、みんな心の中ですんでしまう」(「事実と草生の周辺」より)などと云っているあたり、実地で恋をもうずっと長らくしていないのに、恋愛系の詩歌など書く私は親近感をおぼえずにいられないし「魔利(←森茉莉本人に違いないと思われる作中人物)の小説は(小説の幻影)であるようだ」(「文壇紳士たちと魔利」より)というところも、そういえば私の書く詩歌は「詩歌の幻影」といって差し支えないような気がする。その他いろいろ、生きた時代が違うし(重なりはあるが)好みや価値観が完全に一致するわけではないが、人間としての性質みたいなものがすごく似ているような気がする。
 とはいえ、私はいろいろと森茉莉ほどは徹底してない。森茉莉をものすごくぬるーく稀釈すると私になるのかも、という感じである。私も結構自分の好きなものごとや以前の記憶といったものについて書いたり語ったりする方だが森茉莉の筆致には到底およばないし、生活者としてのダメっぷりも森茉莉ほど堂に入れず中途半端である。そういえば森茉莉は食べ物についてもこだわりが強いが私はそこもそれほどではない。「恋をしない」くだりについても森茉莉は「私は一六歳から二六歳まで結婚生活をしたが、そこでの男女の関係は、恋愛生活とは違って単なる日常生活に過ぎない」とも云っている。十代で結婚、二十代までに二児の出産と二度の離婚を経験した上でこう云い放つ森茉莉。時代的な違いも大きくここには影響しているだろうが、私の方は「若い頃は恋愛ができるかと思って試してみたけれど向いてないことがわかったし、結婚も向かないなあということがだんだんとわかってきて独身のまま」というぬるさである。すごいぞ森茉莉。あと、私はこうやって文章を書いていて、ついついカッコ書きを多用したくなったり、思いつきで話を脱線したくなったりするのだが、しかしそれをあんまりやると読みにくくなってよくないよな……とある程度制御してしまうのだが、森茉莉の文章はカッコ書きも多いし、脱線も多いし、そういう意味で読者の読みやすさなど豪快にぶっちぎっている。すごい。あと、森茉莉は自分自身に対してだけではなく、世の中の人や物事についてもかなり毒舌なこともままあるが、小心者の私は今の時代にたとえばネット上の文章などで毒舌になる度胸はない。ついでに云うと、もちろん私の父は森鴎外ではないし、私は森茉莉ほど父に対してラヴラヴにはなれない。
 
 そんな森茉莉が書いた文章の中でも「贅沢貧乏」は比較的有名な方ではないかと思う。経済的にゆとりはないのだが、ないなりに、自分の好きなもので身のまわりをかためて想像力を加えて「贅沢」を実現している魔利(=森茉莉)。その自らのまわりを取り巻くものたちとそれらに対する心情の描き方はさすがに耽美の世界を構築するひとのそれである。
 私はこれを読んでいて『小公女』を思い出した。主人公セーラがみすぼらしい屋根裏部屋を想像力で素敵なものと見立てるシーンがあるが、私は作中で一番そこが好きだった。
 私も経済的にはあまり余裕がある状態とは云いがたいのだが、できる範囲で身のまわりに自分の好きなものを揃えて、想像力を駆使して「贅沢」を味わうことならできるかもしれない、と思った。やはり、ものを揃える方も想像力を駆使する方も森茉莉ほど徹底はできないだろうけれど。
 しかしである。森茉莉はこうも云っている。「贅沢を悪いことだと思っている人間の中にほんとうの贅沢はあり得ない」(「ほんものの贅沢」より)。贅沢をことさらにひけらかすような「偽もの贅沢」の心の中にそういう「古臭い道徳」が巣喰っていることを森茉莉は辛辣にこき下ろしている。
 ううむ。困った。私はわりとその「古臭い道徳」の持ち主である。贅沢ということに対してどこか罪悪感がある。自分が贅沢するに値する人間でないというような意識もある。とすると、私が「贅沢貧乏」を実践しようとするとまず「自分は贅沢をすることを悪いことだと思っていない人間である」という設定で想像力を駆使するところから始めなければならない。それはなかなか大変だ。
 そこはやっぱり森茉莉は、この「贅沢貧乏」を書いた時点で経済的に余裕がなかったとしても、もともとお嬢様育ちなのだ。最初の結婚の時には欧羅巴生活などもしているのだ。贅沢を「当たり前」に呼吸していた素地があるのである。考えてみれば小公女のセーラもそうだ。だから、状況が悪いときでも、贅沢のエッセンスが身体の中にあるから、それが想像力を補うというところもあろう。
 私には「憧れているが、憧れたところでどもこもならん憧れ」というのが二つあって、ひとつは「早熟の才能」もうひとつが「生まれながらのお嬢」である。自分でお金をたくさん稼げるようになったとか、玉の輿に乗ったとかじゃダメなのである(どっちにしても実現してないが)。生まれながらにして裕福で育ちがよいと云われるような人にあるような気品と余裕のようなもの(もっとも、お金持ちの家の人であれば必ずそういうものを備えているとは限らないのだが)、そういうものが欲しかった。これはすでに最初から過去形でありまた永遠に過去形である。
 贅沢に対する古臭い道徳観はあるわ、贅沢というものの素地はないわで、私が「贅沢貧乏」を実践しようとしても多分に不格好なもどきにしかなるまい。そういう点でも私は森茉莉ほど徹底できないわけだが、でもまあそれでも、このどうしようもない世の中で、少しでも心地よく生きてゆくために、できる範囲のものごとと想像力とで、自分なりの贅沢を味わうということは意識してみたいと思う。
 
 また「黒猫ジュリエットの話」の中に「だから小説のテエマも(中略)現実性のあるものはすべて駄目である。市井の人間の真実や裏切り、悲哀、喜び。深い、実在性のある愛情や憎悪、も駄目。政治に関連したことがら、化学、科学、物理、哲学、偉大な思想。要するに人間社会にはっきりと存在しているものはテエマに出来ないのである。アクチュアリテも駄目である」とあり、事実でなく空想を書くことしかできないといったことも「事実と空想の周辺」で述べていたりして(雑誌の写真などから想像で物語を膨らませるといった話もいくつかの文章で語られる)、このあたりは私が詩歌を書くときの意識とかなり重なるので、私の実力の中途半端さはさておき、ある意味先達と仰がせてもらおうなどとも思った。
 
 ところで、高校生の時に森茉莉の耽美系の小説を読んだと冒頭に書いたが、私が最初に読んだ森茉莉はそれではない。
 子どもの頃、おそらく親が誰かからもらったのだろう『日本料理』『中国料理』『フルーツ』という三冊の同じシリーズ(ひかりのくにファミリーシリーズ)の料理本があった。私は料理を実践するわけではない子どもの頃から、まるで絵本のようにそれらを眺めることを楽しんでいた(今でも料理本を眺めるのはわりと好きなくせにそこから積極的に実践するわけではないのだが)。その『日本料理』『中国料理』はまだあるのだが、なぜか『フルーツ』は行方不明である。
 『日本料理』と『中国料理』には、ちょうど本の真ん中あたりに、日本料理や中国料理の独特の材料を紹介するページが挟まれているのだが『フルーツ』においてはそこになぜか森茉莉のエッセイが載っていたのである。もっともその当時森茉莉という名前を意識はしておらず、後年その内容を思い出して、あああのエッセイは森鴎外の娘の森茉莉が書いたものだったんだ、とわかったのだが。
 果物をめぐる、森鴎外ら森茉莉の家族の思い出を綴ったエッセイだった。『フルーツ』はそれも含めて、行方不明になってしまったらなおさらなつかしく、時にネット古本でないかなどと探してみたこともあった。あるときふと思い立って行ける範囲の図書館にないかどうか検索してみたらあった。それで借りてきた。なつかしい写真や文章に久しぶりに会えて嬉しかった。図書館の本も、自分で利用する範囲であればスキャン等可能だということなので、画像化してPCでいつでも見られる状態にした。だから森茉莉のその文章もいつでも読むことができる。森茉莉は子どもの頃のことをわりと細やかに憶えていて書くが、この『フルーツ』という、私の子どもの頃の記憶になぜか鮮明な本の中に、森茉莉の子どもの頃の記憶が入っているというのがなんだか面白い。

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