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相手のなかに”自分”を残したい、という生存欲求ー『うみべの女の子』観賞記録

セックスはつねづね自己本位な行為だな、とうんざりすることがある。

100%相手のため、とにかく献身的な行為なんてものは、存在しないと思う。
行為に及ぶ前も、最中も、とにかく自分の汚い欲望を、相手にさらけださなければならない。自分の快のために、相手をコントロールすることさえあるかもしれない。

浅野いにおの漫画が原作の『うみべの女の子』は、中学生の男女が性交渉に及ぶ場面が何度も登場するけれど、彼らの行為はまさに、自己中な欲望のぶつかり合いだった。


簡単なあらすじ

この映画のメインキャラクターの佐藤小梅は、地味で目立たない女の子である。「けいこ」というオタク気質で、同じく目立たない同級生といつもつるんでいる。
そんな彼女は、一年のときに告白してきた転校生・磯辺に「セックスしないか」と持ちかける。
このとき小梅は好きだった先輩に振られた直後である。「男なんて、みんな死ねばいい」というむしゃくしゃした気持ちを、男である磯辺で、しかもセックスという手段で解消しようとする。小梅の行動は全く筋が通っていないが、彼女の行動のむしゃくしゃっぷりは、多くの人が共感できるようなものではないだろうか。

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この映画において、小梅は呆れるくらいずるくて、そして愚かだ
自分を好いてくれる相手を、手っ取り早く利用できるからと、自分の気持ちを解消するためにセックスをする。散々気持ちを踏みにじった後に、相手の大切さに気付くも、もうそのときには遅く、思いは届かない…
(そんな小梅の”ずるさ”に、わたしたち視聴者は思い当たる節があって、ヒリヒリした思いでスクリーンを見ていたのだけれど…)

だからこそわたしたちは、磯辺の切実な感情に、胸を鋭く突かれるような思いをする。

磯辺は、学校で友人のいない内気な男の子で、仲良しの兄が自殺している。磯辺は兄の存在を残し続けるために、生前の兄が利用していたSNSアカウントでツイートし続ける。
部屋中にも、生前の兄の趣味と思われる本やCDがびっしりと積まれていて、どうやら磯辺は、兄の存在を”残す”ことに執着しているように思える。

そして磯辺もまた、小梅に対して、何度も希死念慮を口にするのである。


希死念慮に囚われた磯辺にとって、小梅とのセックスは、自分が死んだあとも、自分の存在を未来に”残す”ための手段のように思える。

恋慕う相手に対して、自分の”なにか”が残ってほしいという感情は、誰しも覚えがあると思う。

自分の口ぐせを、相手が自分以外の人との会話で使っているのを見かけたとき。普段は絵文字を使わない相手が、自分の影響で少しづつ使い始めたとき。些細な場面だが、相手の中に自分が”残って”いるように思えて、嬉しくなってしまう。

そんな誰もが共通して持つ”残したい”という欲求は、小梅以外に友だちのいない磯辺にとって、そして兄の存在を”残し”続ける磯辺にとって、より切実なものだったに違いない。

けれど、小梅と違って頭のいい磯辺は、そんな自分の思いが叶わないものであることも、きちんとわかっている。

「かなしいよ」

「何がかなしいって、佐藤はいつかそれなりの男を普通に好きになって、
 まるで初めてみたいなセックスするんだ」

小梅は磯辺の手をにぎって、「一生そばにいるよ」と声をかける。
磯辺はその言葉を聞いて、黙って手を握り返す。

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「一生」という言葉を引き受けられるほど、中学生の彼らは強くない。
自分たちの弱さ、脆さをきちんとわかっているからこそ、磯辺は何も声をかけないのかもしれない。

実際、スクリーンを見るわたしたちは、
そのときには鮮烈な体験であっても、中学生の恋愛なんてものは、いつしか思い出せなくなるほど遠い存在になってしまうことを知っている。

小梅とのセックスに託した、磯辺の切実な願いは、どこにも届かないのである。


けれど、小梅は高校生になっても、はっぴいえんどを聴き続けている。

そしてわたしたち視聴者は、大人になってもなお、小梅と磯辺を見て、彼らのような経験を思い起こすことができる。

どこにも届かない。
上書きされて、いつしか消えて行くしかない。

そう達観していた磯辺の願いは、ヒリヒリした記憶を抱える小梅やわたしたちの存在を根拠にして、
あのとき、誰かに刻み付けた爪痕は、今も誰かの中で、ヒリヒリと残っているかもしれない。

磯辺視点で見れば、そんな希望を持たせてくれる映画だった。


最後までよんでくださってありがとうございました!🌟