表現活動をしている自分がなんとなく自然なんだ

いま、具体的なゴールが見えているわけでない状態で物書きをしている。
絵を描いている。

身体が自然に動いてしまうからだ。
何か表現したい対象がほわっと浮かび上がってくるもんだから、それを捉えたくて形に残している。
ただそれだけのことをしている。

これの延長線上に何を見ているわけでもなく。
小林秀雄も、自分が書きたいものを書いていたら、自分のことを世間が小説家でも詩人でもなく批評家として見ていたにすぎず、
「批評家になるためにはどんなことをしたら、どんな勉強をしたらいいんですか」
という問いに対してどう答えたら良いかは戸惑うというようなことを書いている。

つまりそういうことなんだと思う。
食べていけるから、成功しそうだから、と合理的なアプローチを辿って何者かになることはもちろん可能だけれど、
自分の見えない意志、無意識に素直に従っていたら、世間が○○と呼ぶものにいつの間にかなっていた、という人の方が、”本物”と呼ばれる人が多いような気がする。
その人の本質と実際の行動が一致しているからなんだろう。

だから、
・どうやったら継続できるか
・どうやったらやる気を持ち続けられるか
なんてことは考えるテーマにもならないわけだ。
自分が○○をすることが自然な姿だから、結果的に継続しているのであって、それは眠くなったら寝て、腹がすいたら食事をする、そんな生理現象と同等なものなのだ。
三日坊主になりようがない。

自分の心の中にふつふつと湧き上がって、喉元から出されるのを今か今かと待っている何ものかがある。
と感じたときから、僕はそれの正体をなんとかして突き止めたいと躍起になって、いろんなことに飛びついてきた。
警察官として勤務している時(2015年ごろ)からそうしたものが自分の中にあるということに気付いた。

そのころは、休日の多くを六本木のアカデミーヒルズというコワーキングスペースで過ごしていた。
ここで過ごす時間の多くは警察内の昇任試験勉強に使っていたが、一部の時間を自分の内面と向き合うことに充てていた。
充てていた、というよりも自然とそうしていた。
そのとき生まれた文章がずっとEvernoteに人知れず残っていて、今こんなふうにnote記事として息を吹き返している。

当時はこれと同時に、宣伝会議のキャッチコピー作品公募にも挑戦していた。
残念ながら結果は惨敗だったけれど、自分の創造性を信じて活動し始めた最初の一歩だった。

こうして5年経った今も誰に何を指示されたり依頼されたりなんてこととは一切関係のない理由で、表現こそが自分にとっての呼吸であり息継ぎなのだからこれをしないと苦しいのだ、なんて感覚で活動を続けている。

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