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日本の最先端地域としての佐賀県

 佐賀県といえば、「何もない」「特徴がない」といった自虐ネタに走りがちな県です。都道府県魅力度ランキングでも下位の常連です。しかし、日本史を紐解けば佐賀県は極めて大きなポテンシャルを持っていたことが分かります。

弥生時代の先進地域

 佐賀県を含む九州北部の特徴は、大陸に近いこと。古代には朝鮮半島や中国から文化が流入しました。佐賀県の菜畑遺跡は、福岡県の板付遺跡と並び、日本最古級の稲作遺跡となっています。

 佐賀県の吉野ケ里遺跡は、面積約40haに及ぶ日本最大級の環濠集落跡です。古代の日本において、「ムラ」から「クニ」が形成される過程を示した代表的な遺跡なのです。

幕末の先進地域

 また、佐賀県は江戸時代末期においても日本の最先端でした。

 鍋島家を藩主とする佐賀藩は、福岡藩とともに江戸時代に長崎の警備を輪番で担当していました。1808年、長崎にイギリス船が乱入するフェートン号事件が発生します。この年に警備の担当だった佐賀藩も咎めを受けました。

 後に佐賀藩主となった鍋島直正は、この屈辱をふまえて近代化改革に乗り出します。直正は自ら長崎を訪れて西洋の帆船を見学するなど、強い好奇心と向学心の持ち主でした。

 直正の指導下で、佐賀藩は日本初の反射炉を築き、鉄製の大砲を製造。佐賀藩は日本最先端の「軍事国家」に脱皮します。種痘の導入など、日本全体で見ても近代化に大きく貢献しました。

佐賀藩の影が薄い理由

 佐賀藩(肥前藩)は「薩長土肥」の一員として明治維新をリードし、大隈重信などの有為な人材を輩出しました。しかし、一般には薩摩・長州・土佐ほどの知名度はありません。

 藩主の鍋島直正は、流動化する幕末の政局に対して距離を置き、中立を貫きました。そのため、他の藩で見られた悲惨な流血はほとんどありませんでした。

 政局をリードすることはなかったものの、最新兵器によって新政府軍を助けたため、一定の発言力を得ることができました。

 藩主が極めて賢明だったため、余計な血を流すことのなかった佐賀藩。その反面、後世から見ると幕末史における印象は薄くなってしまったのです。

 ともあれ、佐賀県は「何もない県」どころか、日本史上2度も「日本の最先端」を走った地域です。在住・出身の方は大いに誇ってほしいものです。

 

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