ボスニア紛争と知られざるPR作戦③~ボスニア紛争の背景
前回はこちら。
ユーゴスラビアの解体により、諸民族は別々の共和国をつくることになった。しかし、民族の分布は複雑に入り混じっていたため、諸民族をきれいに分ける国境を引くことは不可能だった。新たにできた国の中で、異なる民族同士が争ったことで各地の紛争が発生したのである。
例えば、独立直後のクロアチアでは、クロアチア人とセルビア人が混在していたため、紛争となった。敵対する民族を自分の領域から追い出すため、強制連行や虐殺が各地で横行した。
(※青=モスレム人とクロアチア人が主体。赤=セルビア人が主体)
ボスニア・ヘルツェゴビナでは、イスラム教を信仰するモスレム人に、クロアチア人とセルビア人が混在しており、多数派が存在しなかった。1992年3月の独立宣言を主導したのはモスレム人とクロアチア人だが、セルビア人はユーゴスラビア連邦からの離脱に強く反対した。また、クロアチア人もモスレム人主体の政府に反発したため、三つ巴の内戦になったのである。この時のボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、モスレム人によって構成されていた。
ひとまず、本稿を読み進める上では、
①モスレム人によるボスニア政府
②ボスニア国内のセルビア人と、彼らを支援するユーゴ連邦内セルビア共和国
の二者の対立を頭に入れておいて欲しい。
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