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アヘン戦争は本当に「西洋の衝撃」だったのか(後編)

前回はこちら。

イギリスはなぜアヘン貿易に手を染めたか

 アヘン戦争は、西洋式の主権国家体制による、伝統的な華夷秩序体制への挑戦といえます。近世のヨーロッパで誕生した主権国家は、国家の権力が及ぶ範囲が明確で、国同士の関係は対等です。一方で、伝統的な東アジアの国際関係だと国境は不明確で、辺境は皇帝の徳が及ばない「化外の地」でした。中華の皇帝は、形式を守る限り朝貢国の政治に干渉することはなく、琉球王国のような「日清両属」も成立しました。この世界認識の齟齬は、東アジアの近代を理解する上で重要になります。


 18世紀末~19世紀初頭、イギリスは対等な国交の樹立と自由貿易を求めて、相次いで清に使節を送りますが、要求は一蹴されました。イギリスは清から茶や陶磁器などを輸入していましたが、一方的な輸入超過の状態でした。銀の流出を食い止めようとしたイギリスは、植民地であるインドでアヘンを栽培させ、これを清に密輸して補填したのです(三角貿易)。


 清ではアヘン患者の増大に加え、銀の流出による問題も深刻化しました。清代では租税を銀で支払っていたため、銀の不足と高騰が農民の生活を圧迫したためです。1838年、アヘン禍を憂慮した清朝はアヘン厳禁を唱える林則徐を登用しました。翌年広州に赴任した林則徐は、貿易を停止して大量のアヘンを没収・廃棄します。しかし、広州におけるアヘン貿易は、既にイギリスの貿易体制にとって不可欠な要素になっていました。


 1840年、イギリス議会は開戦を承認し、アヘン戦争が勃発しました。近代兵器を擁するイギリス艦隊は清を圧倒し、1842年の南京条約締結によって戦争は終結しました。この条約で、清は香港島の割譲や公行廃止による自由貿易、上海など5港の開港を認めました。西洋列強と結んだ不平等条約の最初であり、まもなくアメリカやフランスとも同様の条約が結ばれます。


「西洋の衝撃」を直視しなかった清朝

 もっとも、これらの条約が直ちに「西洋の衝撃」を清朝にもたらしたとは言い難い部分もあります。例えば、外国人の犯罪が本国の法で裁かれるという領事裁判権は、「野蛮な夷狄とのトラブルを拡大したくない」と考えている清にむしろ歓迎されました。そもそも、皇帝は周辺の夷狄に「恩恵」を与えなければならない存在であり、国際関係は「不平等」で当然と認識されていました。これまでの歴史上も、「侵入した夷狄をてなずけるため、やむなく譲歩した」場面は幾度もありました。


 清と列強の間で認識がずれている以上、条約は列強が期待したように機能しませんでした。英仏は1856年、清における外国人への攻撃を口実に開戦(アロー戦争)。敗北した清は、キリスト教布教の公認や開港地の追加などを承認しました。ここでようやく、清は西洋式の国家平等の原則を受け入れ、公文書に「夷」の字を使うことを取りやめたのです。また、南下政策を進めるロシアは、清がアロー戦争で弱っていることに乗じて、アムール川以北や沿海州を獲得しました。


 アヘン戦争・アロー戦争の結果、清の半植民地化が進む一方で、民衆の生活苦は増大しました。1851年に始まった太平天国の乱は、キリスト教の影響を受けた宗教結社による民衆反乱で、1864年まで続きました。清朝の無能力が露呈する一方、乱の鎮定には曾国藩・李鴻章といった義勇軍指導者が活躍します。


 太平天国の鎮圧後、発言力を増した曾国藩や李鴻章らは、西洋の技術導入による国家の立て直しを始めます(洋務運動)。しかし、洋務運動の理念は「西洋のものは実用的な技術のみ取り入れ、伝統的な体制は維持する」というものであったため、抜本的な改革は行われませんでした。

 長年東アジアを規定してきた華夷秩序の中心であったが故に、清は「西洋の衝撃」さえも中華の論理に取り込もうとし、自ら変わることができなかったのです。

(※本稿は、拙著「図解東アジアの歴史」(SBビジュアル新書)の原稿をもとにしています)



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