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アヘン戦争は本当に「西洋の衝撃」だったのか(前編)

 中国の近代史は、1840年に始まったアヘン戦争の敗北から始まります。以後、中国は列強に蚕食され、さらには日本の侵略を受けるという苦難の歴史をたどりました。アヘン戦争をきっかけにイギリス支配が始まった香港が返還されたのは1997年のことです。中国は「屈辱の歴史」を克服するのに極めて長い時間を要したのです。東アジア史の転換点とも言えるアヘン戦争は、なぜ起こったのでしょうか。

中国はなぜ貿易を制限したか

 宋・元の時代には民間海上貿易が栄えましたが、明・清の時代は海禁が敷かれ、国家による管理貿易となります。清の場合、台湾を本拠地として清に抵抗していた鄭成功への対策が海禁のきっかけになりました。交易で利益を得ていた鄭氏の勢力を封じるため、沿岸部の住民を内陸に移住させ、中国人の海外渡航を厳禁したのです。しかし1683年に台湾が制圧されると、海禁は緩められました。貿易は厳格な統制を受けていましたが、明末に来航が始まっていたポルトガルやスペイン、ついでオランダやイギリスなど西洋との貿易も行われました。


 明末から清初にかけて、多くのカトリックの宣教師たちが中国を訪れるようになります。彼らは西洋の科学技術を紹介し、中国の権力者にも重用されました。しかし、中国人のカトリック信徒による儒教的な先祖崇拝を認めるかどうかによる論争がカトリック内で発生(典礼問題)。これをきっかけに、清におけるキリスト教の布教は雍正帝の時代に禁止されました。


初めは朝貢の延長だった西洋との貿易


 さらに、次代の乾隆帝は1757年、西洋諸国との貿易を広州(広東)一港のみに制限します。広州には公行(コホン)とよばれる特許商人の組合が置かれ、独占的に貿易を行いました。広州における貿易は、あくまで外国からの朝貢に対する皇帝からの恩恵という体裁で行われました。西洋人も伝統的な華夷秩序の中に組み入れたこの貿易体制を、広東貿易といいます。


 後述するように、江戸時代の日本および朝鮮(李氏朝鮮)も鎖国体制をとっていたため、17~19世紀前半までの東アジア諸国の対外関係は、軒並み制限されていました。一方、広東貿易のような管理貿易体制は、自由貿易を推し進めることで覇権を狙っていたイギリスの利害と衝突するものでした。


 15~16世紀にかけての大航海時代の結果、ヨーロッパからアジア・南北アメリカ大陸への航路が開かれました。海上の覇権は初めポルトガル・スペイン、続いてオランダと移行します。18世紀には、インドや北米でイギリス・フランスによる植民地戦争が展開され、イギリスが勝者となりました。清との広東貿易でも、イギリスが他の列強を圧倒し、独占状態になります。


 18世紀後半には、イギリス本国で産業革命が始まり、工業化が進展しました。綿織物を中心に、安く良質な製品の大量生産に成功したイギリスは、自由貿易による利潤獲得を望みます。しかし、非対称な朝貢貿易の体を取る広東貿易は、「対等な国同士の関係」である自由貿易とは程遠いものでした。

(続く)

(※本稿は、拙著「ニュースがわかる 図解東アジアの歴史」の原稿をもとにしています。)


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