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エムス電報事件⑪(完)~ビスマルクは本当に世論操作に長けていたのか

前回はこちら。

 エムス電報事件において、ビスマルクは一通の電報を発表することでフランスを開戦に追い込むという最大限の戦果を挙げた。その鮮やかさから、ビスマルクには「報道や世論を狡猾に操る巧者」のイメージがつきまとう。しかし、彼の活動を追っていくと、また違った側面も見えてくる。

情報の影響を見誤った「ルクセンブルク危機」

 ドイツ統一前の1867年3月19日、「プロイセン官報」で、南ドイツのバーデン大公国及びバイエルン王国と、前年に軍事同盟を結んでいたことが公表された。同23日、ヴュルテンベルク王国との同様の条約も公表される。これはドイツ統一を目指す国民主義者に評価され、ナショナリズムを高揚させた。
 ビスマルクは、なぜ軍事同盟の内容をこのタイミングで公表したのか。当時、北ドイツ連邦(プロイセンを中心とする北ドイツの国家連合)の議会は、責任内閣制の導入を求めてビスマルクに突き上げを行っていた。
 議会と妥協したくないビスマルクは、ドイツ統一に向けた機運を盛り上げることで、自分の立場を確保しようとしたのである(飯田洋介「グローバル・ヒストリーとしての独仏戦争」)。

 ビスマルクはこの時も、情報・報道を利用して政治的な利益を得ようとしたことになる。しかし、条約公表の反響は彼に思わぬ誤算をもたらした。
 当時、ビスマルクはフランスのナポレオン3世との連携を模索していた。彼のシナリオは次のようなものだ。


 フランスに貸しをつくるため、フランスのルクセンブルク併合を手助けする。ルクセンブルクはオランダ領であったが、オランダには金銭的補償をすることにし、プロイセンがその仲介をする。これらの交渉は秘密裏に進められていた。


 ところが、上記の南ドイツとの軍事同盟の公表が、近隣諸国の警戒を呼び起こしてしまった。プロイセンはオランダやフランス、さらにはプロイセン国民からの不信感を買い、ビスマルクは窮地に陥ってしまう(ルクセンブルク危機)。
 情報を使って世論を誘導するのは、これほど難しいのである。

不発に終わったビスマルクのフェイクニュース

 ドイツ統一後の1875年には、こんな出来事も起きている。
 ドイツ統一はフランスを打ち破って達成されたので、ビスマルクはフランスからの復讐におびえ続けた。1875年にフランスが陸軍改革を行うと、彼は警戒をあらわにする。


 4月9日、ビスマルクはベルリンの新聞「ポスト」に「戦争、目前に迫る?」と題した刺激的な記事を書かせた。さらに、エムス電報を最初に載せた「北ドイツ一般新聞」にも捕捉記事を掲載させる。フランスを悪玉にし、外交的優位に立とうとしたのである。


 ところが、この時のフランス政府は以前のようにはいかなかった。フランスの根回しを受けたロシアやイギリスが、戦争回避を求めてドイツに介入し、ビスマルクの思惑は外れた。エムス電報事件の時と違い、対フランスの「フェイクニュース」は不発に終わったのだ。
 以後、ビスマルクは列強からの警戒を和らげるため、大国間の利害を調整する平和外交に苦心していくことになる。

 一般に、ビスマルクは徹底した現実主義的政治家とされ、エムス電報事件も彼の狡猾さを示すエピソードとして語られてきた。しかし、実際は国内・国外の世論が意のままにならず苦闘する場面も多かった。


 権力者は、情報の発信を通じて世論や政治情勢を操れる優位性を持つ。しかし、それは決して万能の力ではない。エムス電報事件は、それ単体を「情報操作の恐ろしさ」と評価するより、報道や世論が一定の力を持つに至った19世紀ヨーロッパ政治史の一挿話としてとらえた方がいいのかもしれない。

(了)

【主要参考文献】
飯田洋介「ビスマルク」中公新書
飯田洋介「グローバル・ヒストリーとしての独仏戦争」NHK出版
鹿島茂「怪帝ナポレオン3世」講談社学術文庫
ヴォルフガング・イェーガー、クリスティーネ・カイツ編「ドイツの歴史 ドイツ高校歴史教科書 現代史」(明石書店)

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