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ウヨンウ弁護士は天才肌(이상한 변호사 우영우 )

ある友人がこのドラマを「誰かに話したくなるドラマ」と表現していたけれど、その表現通りのドラマでした。私も見終わった後すぐに感想を話し合ったほどです。ピンポイント特定の良かった点を挙げようとすると良いところが多く、長くなってしまうと思ったほどでした。そしてなにより見終わった後、自分の生活を振り返り一歩前に進もうとする勇気をもらえるドラマだったと思います。

ドラマが終わった時に書いたメモ、そして友人との会話を通して思ったことを参考に「ウヨンウ弁護士は天才肌」の感想を書いていこうと思います。

以下盛大なネタバレあり注意

良かった部分

(1)「自閉スペクトラム」に対する見方を変えた

今回のドラマをみながら私は自閉症スペクトラムに対しての接し方が変わりました。具体的に言うと「障害」が1つの「特性」だと直感的に理解できました。

ムンジウォン脚本家は、あるインタビューでこのように発言しています。


「社会人として待ち受ける困難と、その困難を突破する力、そして能力は全て自閉症スペクトラムの中から探した。ウ・ヨンウが天才ならただの天才ではなく自閉症スペクトラムが持っている特性の中から「天才の要素」を探し出した」


そしてこう続きます。


「原理原則にこだわり言葉そのままの意味として受け入れるからこそ、生まれる創造性がある。認知的共感能力(相手の視点にとって相手の状況を推測する力のこと。努力によって高めることが可能)が劣っていると言うことも、言ってみれば特定の状況で感情に惑わされることなく本題に切り込み依頼人を助けることができる。」


「障害」と聞くと「人よりできない」ということが目立ちがちです。ウ・ヨンウも空気が読めないため相手を困惑させることもあります。しかし一方で他の人が見えなかったことを見抜き勝訴に導いていきます。

自閉症スペクトラムという「特性」は、社会生活をする中でぶつかる部分が多いために「障害」として認識され「特性」であることが見えにくくなってしまいますが誰もが持っている特性が「自閉症スペクトラム」という診断名に帰結しているだけだと言うことです。

なのでムンジウォン脚本家のこの切り込み方によって自閉症スペクトラムが「特性」の一種であると直感的に納得できました。


(2)全ての方面に消費しないように神経が張り巡らされている


「自閉症スペクトラム」が主題に置かれてるからこそ、その他の部分に対しても意識して作られていると感じました。


自閉症に関しては「自閉症」の中にも多様性、スペクトラムがあること。


2話の「ペンスでいきます」では重度の自閉症を持つキム・ジョンフンとその両親からみたウ・ヨンウの眼差し。10話の知的障害者との恋でも「障害者」とまとめられがちですが、一人一人違いがあるということを私たちに見せてくれます。

また「サンヒョンの場合は台本には「自閉症の診断を受けてはいないがヨンウと類似した特性を持っている」と説明をつけた。」と脚本家自身も語っているように自閉的傾向を持っている人が登場します。15話の裁判官がウ・ヨンウが上司に対して指摘した同じ部分を指摘した部分ももしかしたらこの人も自閉的傾向を持っているのかな?と思わせるなど自閉症スペクトラムが特別なものではなく「見えていない」だけだと示しています。


フェミニズムに対しても意識して作られていることを感じました。(最近のドラマだと必須の部分になっていますが)二大法律事務所である「テスミ」と「ハンパダ」の代表が女性であるという設定からもそれが伺えます。5話のATMメーカーの裁判で男性陣が軍隊の話をして女性であるウ・ヨンウが除外される話、また12話の保険会社の不当解雇の話は真正面から女性の連帯している姿を描いており、印象的でした。

リュジェソク弁護士

以上のように「自閉症スペクトラム」という主題は安易に描くとただの「消費」になってしまいます。しかしこのドラマは全ての方面から極力「消費」しないように深く勉強した上で作られたことが窺えるため安心して見ることができました。


(3)自分を認識をし、乗り越えていく過程


個人的「ウ・ヨンウ」好きな部分No.1が、ウ・ヨンウの自分の特性の向き合い方です。

例えば15話でイ・ジュノがウ・ヨンウに対してどうして別れようと言った時にこう返答します。

「でも私と一緒にいて孤独を感じたことは?私の頭の中は自分のことでいっぱいでそばにいる人を孤独にさせます。」


自分の特性を言語化してそれによって相手にどのような影響を与えているのかという点まで把握していること。

最初のシーンでもどんな表情を作ればいいか練習しているシーン


そして個人的にはウ・ヨンウの服って基本的に3パーツで構成されていてますよね(かつ上のジャケットとボトムはセットになっている場合が多い)

多分全然種類の違う服を組み合わせるのはヨンウにとっては難しいから、基本的に型を決めているんだろうなと思ったり。


これらも自分の特性を勉強し理解しどのように対処していくかということを学んで習得してきた努力の過程が見えます。


そして「障害」と捉えがちな部分が、人の助けを借りて克服されていく過程がドラマ内で描かれて視聴者は達成感と言いますか快感を味わうことができます。


それを象徴的に表すのが回転扉のシーン。

ヨンウにとって恐怖の存在でしかなかった「回転扉」が、ジュノの助言によって出来なくても挑戦しようと思える存在になり、最後には通過できて達成感を味わう。


もう一つは11話の抱擁椅子のシーン。おそらくファンが多いであろうシーン。私も大好きです。

事故の衝撃でパニックになっているヨンウを落ち着かせるためにイ・ジュノが強く抱きしめます。後でそれは「加圧させることでパニックを抑えることができる」ということをジュノは勉強して知りもしパニックになった時に専用の抱擁椅子になってあげると提案します。



このドラマが自分についてもう一度振り返させてくれたのは、このような部分がによるものだと思います。例え自閉症スペクトラムと診断されていなくてもそれぞれ持っている特性を言語化し認知していき、それを相手に伝え考えていく姿は常に必要であるとこのドラマを見て強く思いました。

最近になってようやく自分の特性を勉強していく中で自分について理解しそれを自分にも、相手にも伝わるように言語化する大切さを知りました。きちんと原因がわかれば今までなぜ出来ないのか、そもそもストレスを受けていたことにも気づいていなかったことに気づき原因不明の不快感が取り除かれる嬉しさは前にすすむ力をくれます。



(4)美術

重たい話題を扱うのに、一貫して暖かい雰囲気に包まれていたのは美術が一役買っていたと思います。個人的なお気に入りが鯨の知識を話している時のアニメーションです。



惜しかったと思う部分


前提として本当によく出来ているドラマだと思っています。最初の方に書いたように細かい部分まで練って作られていて普段だと見逃されてしまう、当たり前としてそのままにされてしまう描写も立ち止まって描き、視聴者に対して問題提起をしてくれた。

ただ、そんな中でもここは気になったなと思った部分を記録として残していこうと思います。今は細かすぎる部分だとしても価値の変化も著しいので数年後みたら変わっている可能性も十分にあります。その時のために残しておこうと思います。


(1)暴力で怒りを表現するシーンが多いこと。

これは男性陣に多いのですが、ヨンウの父、そしてイ・ジュノの怒りの感情の出し方が暴力になっているシーンが多かったのが気になりました。最初は友人がヨンウの父がテスミに出会った後にものにあたって感情を爆発させるシーンが気になったという話をしていてふと「確かに」と思いました。

特にジュノがクォン・ミノに対してバスケをするシーン、そして友人にヨンウが侮辱された時に喧嘩沙汰になったシーン。ある種ヨンウを思って行動した→ときめくポイントではあるんです。(実際私もキュンとした)ただ感情の解消の仕方が暴力に結びつきやすいことはある種有害な「男性性」にもなりかねないため、その点はもう少し異なるアプローチがあればよかったと思いました。実際暴力の矛先が恋人や家族に向かわない保証はありません。


有害な「男性性」は教育や環境によって形成されるもので(例えば男だから泣くな。男は背中で語る→言葉でコミュニケーションしようとしないに代表される固定概念)、イ・ジュノ自身もそれに気づいていない可能性が高いと推測できます。

それこそ1-(3)で語ったように、自分の特性、困難なことを言語化し認識し改善していく姿を描くことがこのドラマの魅力の1つだと思います。なのでぜひシーズン2ではウ・ヨンウと過ごす中で自分の中の男性性に気づき改善していくというエピソードで回収してほしいと思っています。

(2)テ・スミに対する視線

韓国2大法律事務所の代表がどちらも女性であるという点からもフェミニズムの視点が入っていたドラマではありましたが、その1人であるテ・スミがウ・ヨンウを出産するシーンは特に疑問に思った点がいくつかありました。


①予想外の妊娠に対する女性の選択権のなさ、身体的・心理的な負担の大きさ。

子供を中絶するつもりだったテ・スミですが、クァンホの懇願によって子供を産むことになったテ・スミ。予想外の妊娠に関しては男性の責任も大きいのにも関わらず子供を産むことに関して自分の身体の選択権が彼女から奪われてしまっている点。もちろんその対価としてクァンホは弁護士の道を諦め日々の生活をするのに苦労をするという部分で贖罪したという描き方ではありましたが、結局彼の母はそのことに対してテ・スミに苦言を示していたという描写があるように彼女は社会的にも「子供を捨てた母」として後ろ指を刺されることになります。(実際それを利用してハンパダの代表は引きずり落とそうとしていた)


②16話のテ・スミがマスコミの前で語る言葉



「私は今日長官への立候補を辞退しました。私も深く反省しています。息子もまだまだ未熟です。私は疎かにしてきた母親の役割を果たして行きます。」

(그동안 하지 못했던 어머니로서의 역할도 충실히 할 것입니다.)


男性だった場合「今まで出来ていなかった父親の役割」という言葉が出るだろうかと疑問に思いました。母としての役割が、キャリアが背反する存在として置かれてしまっていると思ったからです。


(3)教育ママというステレオタイプ

9話に出てくる子供に大量の勉強をさせる親が全員見事に女性だった部分。 9話は珍しく既存教育システムに対する弊害を断罪した(今までは比較的問いを投げかけるものが多かった)回でした。脚本家の方のプロフィールを見たらいわゆる既存の教育システムとは違う選択を自らしていており、個人の背景が強く反映されているのではないかと思っています。ただ教育に熱心な親をすべて女性に設置したのは安直だったと思います。

まとめ



このドラマを通じて自分の生き方、自分との接し方に対して再度考えるきっかけになりました。自分が苦手なことによって発生する自己嫌悪や呪いを解いていくのにとても役に立った作品でした。良い作品だったからこそ、このような部分を再度検証してそして新しいシーズンが出たときに問題点が改善してくれるとより、この作品の存在が私にとって大きなものになると思っています。ぜひシーズン2を期待しています。




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