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あなたのためだけに「表現の自由」があるのではない

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どうもどうも、エンジニア、元東京大学非常勤、胸というより少しお腹まわりが出ているような気もするとつげき東北です。
今回もマジメな話なので、「だ、である」調でいかせてもらいますね。


いってみましょう~!

※2022/6/14追記(記載変更)
本文中に出てくる「Nさん」は、私の中で典型的な「表現選択派」のステレオタイプであり実在する何人かの人物に共通する特徴を取り上げたつもりだが、一部偏った見解がある可能性も残ることを付記する。
※追記以上
※2022/6/19追記(全般的な構成変更と追記)
「Nさん」は実在の何人かの人物に共通する特徴として取り上げていたところ、実在の人物に紐づけられる懸念を指摘されたため、完全に架空のステレオタイプな人物イメージに切り替えて本文を書き換えた。
※追記以上


私は「表現の自由を求める人々」の一人だ(便宜上「表現自由派」と呼ぶ)。
私自身が著書を書いたりプログラムを公開するなど、公的な表現者であり、実際に表現に対する規制を受けた経験がある当事者だし、表現を守りたいと切実に願っている。
同様の方々として、周囲の狭い範囲をぱっと思いつくと、例えば白饅頭氏 、ろくでなしこ氏手嶋海嶺氏ヒトシンカ氏などが挙げられる。
ここに共通するのは、「表現の自由」を守るにあたり、まずは「日本国憲法の趣旨」を原則とし、憲法に違反すると考えられる表現規制に反対すること、また法令等であっても、憲法の趣旨と矛盾する法令等を批判すること、表現規制の「ライン」を規制側に移動(現状修正)してくる運動や活動に何としてでも反対しようとする立場だろう。

他方で、これと似て非なる人々として、「表現選択派」がいる(便宜上の呼び方。「表現自由派」との性格の違いを後に記すため)。
決定的な違いは、表現自由派と違って、表現選択派は、「日本国憲法の趣旨」とは無関係に、何らかの彼らの好みによって、表現規制の是非を唱えるところだ。端的な例では「憲法上は問題ないが、少女像の展示を取り下げるよう運動を行う」ことや、逆に「人権侵害になっているが、この程度の表現は良いだろう」と社会運動を起こすなどである。

「表現自由派」と「表現選択派」の中で、しばしば対立が生じるため、その原因と現状について少し整理しておく。

原理原則のおさらい

本国憲法における「人権」(表現を行う権利や、表現を享受する権利としての「知る権利」など)は、「公共の自由(他人の人権)」を侵害しない限り、無制限に与えられるものである。

すべて国民は個人として尊重される

日本国憲法13条(抄)

生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

同13条(抄)

よくある誤解として、これを、
「社会の秩序や平穏など、公共的な価値のために、個人の行動は制限される」
「多数の人の利益になる場合には、少数の人はある程度我慢しなければならない」
といったように解釈している方がいる。
しかしこれは誤りだ。
憲法13条は、
「社会的な価値(大勢にとって居心地が良いことや会社が儲かること)」
などではなく、
「個人の権利こそが最大限に求められなければならない」
と謳っている
のである。
決して、大多数が「嫌味だなあ」と感じる言葉を誰かが言ったところで、その発言を止める権利は、一般に存在しない

ただし、特定個人が無限に自分の「権利」を主張してしまうと、当然ながら「他の個人」の「人権」と衝突してしまう場合がある。
こういった場合に――こういった場合にのみ、個人の人権は制限され得る。個人の人権を制限できるものは、別の個人の人権だけだ。
例えば何らかの刑事事件の容疑者の「実名報道」は、容疑者のプライバシー権や財産権、名誉等を侵害している。私個人としては有罪判決も出ていないのにとんでもないことだと思うが、重大な犯罪については、大勢の「知る権利(人権)」と衝突するとも考えられており、このあたりはいかにも「文系的に」処理され、時々はマスメディア側に賠償が命じられたり、命じられなかったりする(冤罪によって人生が終わるかわいそうな被害者もいる)。

このように、人権と人権の衝突を調整することを、憲法では「公共の福祉」と呼ぶ
まず、これを抑えているか、ここに立ち戻って事態をとらえることが可能か、というところが1点、非常に重要な観点である。

「表現選択派」が表現規制に与している可能性

私が「表現自由派」として、「表現選択派」に感じている不満は、
「原理原則がないこと」
「首尾一貫した理屈を通さないこと」
「結果的に、表現の恣意的規制を行ったり、実質的に表現規制側に与する行動をとること」
「誠実性が欠けていること」

あたりにある。
例えば、いくつかの「表現」に対して、原理となる「憲法上の原則」≒「他人への人権侵害」における判断を示し、それらと、「法令」や「フェミニストの判断」「ある特定の表現選択派の人の判断」の一致の度合いを表にしてみよう。

ここで「フェミニスト」と書いたのは、いわゆる「ツイフェミ」などと揶揄されるような、特定のポスターの表現にケチをつけたり、学術用語として何ら定義もされていなかったり共通見解が得られていない概念を振り回して表現をやめさせたり、妨害活動を行う人を指す。
そうした方は、
・宇崎ちゃんポスター
・5等身キャラのエロゲーム
・自分たちへの(正当な)批判
などにも相当強く反発することが多く観測されるため、表中にそれを記した。

なお、表中に「パワハラ行為」というものを入れている理由は、憲法や法令と主義主張との一貫性を示すために後に利用する目的からである。一般的にフェミニストとはいえ「パワハラは自由だ!」などとは主張しないだろうから、これは憲法等と「一致する」ものとした。
最終行に、上8行の内容中、関係する項目を分母、そのうち、「憲法」「法令」などの「原理」と一致している数を分子として記した。
もちろん、取り上げた8つの事例は恣意的だから、この数字自体に直接的な意味合いはない(フェミニスト側に不利な状況を数多く並べれば、フェミニストの「点数」をいくらでも下げることが可能だ)。
しかし、ひとまず取り上げた8つの事例に対して、フェミニストがどの程度「憲法」「法令」などの原理を無視して活動しているかをざっくり把握することができる。

ここで問題となるのが、「表現選択派」である。
表の一番右の列に「表現選択派」として挿入したものがその類型の方の判断の一例である(私の脳内で、典型的な人物像を描いた)。

表現選択派は、例えば2次元のイラスト等については「表現を守るべき」と強く主張している。ところが、「あいちトイレンナーレ2019 表現の不自由展」において「少女像(戦時中に日本軍が韓国で少女らを性奴隷扱いした、とする韓国側の主張を象徴する像)」が設置されていることに大反対した。

反対の声は、河村たかし名古屋市長の2019年8月2日の発言、
「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」
に代表される。
こういった信念
で行動したのだ。ここで私が「信念」と軽んじてみせたのは、私は日本人であり日本国民であるが、この「少女像」の展示によって心を一切踏みにじられなかったからだ。むしろ、表現規制が公然とされる日本の権力者に腹が立っただけだ。
同市長は、8月15日にもこの「少女像」に対して「最低限の制限は必要」と発言し、大村愛知県知事から記者会見にて
「公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う」
と批判されるに至った。
「少女像の展示の是非」に関しては、色々な方面からそれぞれの意見が上がっていた。短絡的に好き嫌いを語る者もいれば、苦し紛れに「表現は自由だ。しかし、人の気分を害するものに公金を使うな。家でやれ」といったものまであった。
まったく逆だ。
「個人の人権(表現の自由)を守る」ためにこそ、国家権力は全力で公金を使うべきなのだ。決して、一部の、多くの人々の「気分のよさ」のために公金を使ってはいけない。これを「公共の利益」という。特定個人ではなく全員に平等な利益を与えるのが「公共」の概念なのだ。

「表現選択派」は、しばしばこうした「公共」に関する知見が不足していて、「少女像」の展示を止めることに賛同した可能性がある。
仮にもし「公金を使うな」が正しい根拠として使えるなら、「家でやれ」も嘘になる。日本人は公金を投入された道路、警察、自衛隊、水道、電気等で暮らしているのであり、それらを使いながら「家で表現」をしたところで、「公金を使っていない!」とは言えないからだ。

比較的最近の話をもう1例として出す。
元プロゲーマー(たぬかな選手)の表現「身長170cm以下の男に人権はない(要旨)」に対しても、多くの表現選択派が「いくら表現の自由と言っても、そういう人を傷つけることは表現すべきではない」と反対した。「表現自由派」だと思っていた方々の比較的多くがそのように行動したことは、私にとってはショックだった。

私や、誰か有名人が「あなたには人権がない」という発言を個人に向けたとしても、それによって具体的に人権を侵害されることは通常ない。事実、身長170cm以下の男性は、たぬかな選手の発言と独立に、今日も元気に生きている。
ところが、元プロゲーマーたぬかな選手は、当該発言により「炎上」し、プロライセンス契約を剥奪されたり、ネット上では事実無根の、ありもしない誹謗中傷を受けた。財産権や人格権、つまり人権が実際に侵害されてしまったのだ。もちろん人権を実際に侵害されたのは、たぬかな選手だけではない。たぬかな選手の「過激な」表現を楽しみにしていた多くのファンも「知る権利」を侵害された
表現を「自分の好きなもののみOK」と「選択」した人が、結果的に人権侵害につながる行為(実施主体はたぬかな選手と契約をしていた企業や、炎上させまくった一部の悪意ある個々人だといえ)を「推奨」「容認」「看過」してしまうことに憂慮している。
「あなたが気に入った表現」だけが「自由」なのではないのだ。

いうまでもなく私やヒトシンカ氏等の「表現自由派」は、「憲法」や「法令」に基づき、限りなく表現の自由を尊重すべきだと主張するし、表現が守られるためならば、実際に合法的である限り「活動」も行う。
以下は、「アラートループ事件」と呼ばれる、兵庫県警による「コンピュータ上での表現の自由」への侵害と思われる事案に対抗するため、私と他の発起人2名が連名で寄付を募って表現者を「救った」例だ。24時間で700万円を超える寄付を集め、エンジニアの「表現」を救う活動を行った。

現代の日本では、何の不法な行動をしていなくとも、表現の自由が奪われ、急に企業から処分を下されたりするということが普通にまかりとおっている。表現自由派は、そうした状況に常にアンテナを張って、実際に問題解決に向けて取り組んでいる。

それなのに「表現選択派」は、「相手を批判したりするのではなく、対話を繰り返すしかない」などと呑気なことを言っているそれで表現の自由が守られるならば大賛成だが、事実、何一つ守られていないから、私は「表現選択派」の非現実性に頭を悩まし、規制側に加担してさえいるかのような言動を嘆いているのだ。

「表現選択派」に求められる「原理と一貫性」

なぜ「表現選択派」が、ことによると表現規制側に好都合な発言や行動をしてしまうのか。それは「表現の自由」に対する「原理」がなく(知らないのか、わざと無視しているのか)、原理に沿った「一貫した判断」ができないからだ。
「憲法」や「法令」を原理としながらも、
「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」
のような、
「外国人に対するヘイトスピーチは違法」とする不当な法律
にはしっかり反対するというのが表現の自由を守るための一貫した行動のはず
だ。
それなのに、自分の好きな表現(それが二次元エロであれ、BLであれ、口汚い感じのドラマのセリフであれ)だけには「表現の自由!」を意気揚々と掲げながら、自分がなんとなく気に食わない表現(先述の「たぬかな選手」の例がそうだ)には「この表現はよくない」と断罪してしまうとは、なにごとか
「自分の曖昧な『好き嫌い』に基づき、特定の表現に〇をつけたり×をつけること」
これこそ、本来は表現の自由の敵となる「フェミニスト」たちがこれまで繰り返してきた悪事の形式そのものではないか。
こんな「いい加減」な判断をする者(「表現選択派」)が、まるで表現自由派のような顔をしていてはたまったものではない。

このような問題意識から、私は「表現選択派」に、彼らの「原理」として、「憲法」や「法令」以外の何が具体的にあり、どの程度歩み寄れるかを試みようと何度か行動してきた。
例えば、青識亜論氏と討論したことがある。
彼は典型的な「表現選択派」である。
「たとえフェミニストたちが実際の表現の自由を奪ったとしても」
「暴言を吐いたりしてはならず」
「冷静に話し続けなければならない」

という奇妙な信念を強く抱いており、それによって私やヒトシンカ氏の行動を非難しすることがままある。

信念が違うだけならわかる。
しかし、彼には根柢のロジックがない。少なくとも説明を受けている限りにおいては、無だ。
何度も彼の信じる「正義」「公共性」とやらの定義を質して理解しようとした。
しかし青識氏は、「それは先ほど定義した。忘れたのか?」と言うだけで、一度も「正義」「公共性」についてきちんと定義をしてくれなかった。
そして、「酔っぱらった」として、通話を一方的に切ってしまった。

彼は、マイケル・サンデルさえ読んでいないそうだ。
それでいて、「フェミニスト」と「討論」などをしている。
基本的な知識を得ることをせずにワイワイやって、一体何が得られるのだ……。

もちろん私は、当該書籍も、『公共哲学』も読んでいる。異常にくだらない本だったが。

彼はうっすらと感じた「正義」「公共性」に従って行動しているから、話し合いが成立しない。
「きちんと冷静な話し合いが必要」と言っていた張本人が、不実な対応で話し合いを拒むのだ。
ご本人は特段表現規制の犠牲になったこともないのだから、私のように著書を記す際にも色々な制約を実際に受けている当事者からすると、「話にならない」と感じるわけだ。

フェミニスト等の「表現規制派」たちだけが「表現自由派」の敵なだけなら理屈を詰めて戦うことが一応可能なのだが、一見フェミニストと戦っているつもりの「表現選択派」は、その原理において「一部の表現を除いて、(個々人の好みや信念によって)実は表現規制派」に変貌すること、そのことに多くの方が無頓着な状態に危惧を覚えた。
特定の人権侵害行為に対する「対抗措置」の方法は、これまた個々人の自由であり、むしろ一方的に各種表現が規制されつつある現状(先日6月13日には、「侮辱罪」を厳罰化する改正刑法案が参議院を通過した。われわれの「表現」はどんどん不自由になっている)、「冷静な話し合い」など完全にないがしろにされて次々と表現者が潰されている中、表現を救うためには何の価値もない「冷静な対話」なる看板を掲げていること自体が、表現規制派に利を与えているとすら思える

※いくつか、寄せられた代表的な意見にコメントしておく。

「表現規制派」がダメだということは、多くの者が知っている。
「表現選択派」もまずいと理解する必要がある、というのが、従前から私が感じていた問題点。まるで「冷静な議論」を行っているかのように見える人が、何一つ役に立たない空論を垂れ流すのは、あたかも「女性学者」たちがその査読付論文において、恐ろしいほど誤った主張を繰り返して「学問」を進めている状況かのようだ。
他の意見として「表現選択派」というのは「ただのレッテル貼りだ」という見解も多く寄せられた。
「レッテルを貼る」というのは、本来Xではない人に対して、「Xだ(Xはあまり良い意味ではないこと)」と決めつけて悪い印象を与えることである。例えば私は学歴主義者などではないが、「学歴主義者」だとレッテルを貼られることがある。
憲法が保障するはずの「人権」の範囲を制限してまで他人の表現を規制しようとしているならば、「許容可能な表現」を、個人の好みで「選択」しているのだから、事実、表現選択派と言わざるを得ない。
仮に誰かが「私は低血圧ではない!」と自称していても、医師が「低血圧だ」と診断すれば、その方は低血圧なのであり、「医師がレッテルを貼った」などとは表現しない。
「レッテルを貼っているだけ!」という言葉こそがレッテル貼りに他ならない。

「表現の自由原理主義」とするレッテル貼りにこそ注意してほしい。
「自分の人権」が「表現の自由」を求め、あるいは他人の「表現の自由」を制限する、憲法上唯一の原理(時に法令等に細分化されるが)なのであって、当該「原理」に基づかないあらゆる「表現規制の動き」は、単に「自分はこの表現を許す、これは気に食わないから権利を認めない」と言っていることと等しい
「自分の感覚こそが原理なのだ」
という「感覚原理主義」がいかに危険かは、それこそフェミニストによる「性的搾取でけしからん」レベルを回顧すれば明らかだろう。

あなたのためだけに「表現の自由」があるのではない

従前から「表現選択派」たちは、「この程度」だったから、私はもとより相当嫌な気持ちになっていた。
彼らは、どれほど「憲法」等の原理や、そこから自明に導かれる結論について説明しても、理解できないのである(いや、実は個別には理解し、「表現選択派」をやめて「表現自由派」に転じた方々もけっこういるのだが)。

「私の好きな二次元画像を守りなさい」
「それを読むことができる世の中を!」
わかります、わかります。
その時、視野を「自分」に合わせるのではなく、
「ブサイクなオッサンや臭い人、あるいは、パワハラする人も生きやすい世界にしたいと思わないのはどうしてか、その理屈をきちんと理解する」
といった自問が必要だろう。

  • 「LGBTでも生きやすくしてほしい」

  • 「太っているのも個性じゃないか」

  • 「マスクをしていなくて何が悪い?」

それはそれでわかるのだが、「自分好みの表現やあり方を守れ」、というのは、結局は、「自分が嫌う表現は消すべきだ」に帰着してしまう。

私はそういった「(一貫した理屈がないのに)自分だけがよければよい」という考え方に馴染まない。自分の趣味とは全然あわなくとも「性的に『異常』な嗜好を持った人でも(犯罪に走ったりすることなく)生きやすい社会」になった方がよいと思うし、現状のように、SNSをやっているというだけで会社で処分したり、大学を退学させるような事例が頻発する社会はとても嫌だからだ。

「パワハラをする人も生きやすい世界にしたいと思わないのはどうしてか」
を考える際に、「何を基準として」「どのような一貫性をもって」自らの好みを正当化し、他人の権利を侵害しようとしているのかを考えられるようにしよう。断るまでもないことだが、「パワハラをする人も生きやすい世界にしたい」と私が思っているわけではない。私は「憲法」や「法令」に準拠して考えるのだから、表に記したように、
「パワハラは(主として暴行や脅迫等に該当するような)犯罪である」
ことから、そのような行動は制限されるべきだと判断する。いうまでもなく、現在「パワハラをする人」が、「パワハラをせずに生きていける世界」になれば、なおよい。

あぶりだされる「表現選択派」の知性水準

実はこの騒動の少し前、私は次のような固定ツイートをしていた。
大勢の方がいつも、
「自分にとっての善」=「my道徳(と私が著書で呼んだもの)」
のみに従い、つまり本人の好き嫌いで物事を判定してしまうのでうんざりして、「道徳等の宗教的な迷信」に基づく行動が多いね、といった話をした直後である。

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シンプルな例だが、明らかに「読解力が足りない」(場合分けができていない)人が非常に多く存在することがわかる。
「パワハラをする人も生きやすい世界にしたい」と「あなたが願わない理由は何か」といったことを聞くと、多くの糞尿めいたツイートが投げつけられる。

「あなたはパワハラを正当化するのか」
といったものだ。
それはどうにも、返答としておかしい。
「表現選択派」には、この種の文章を読むことはできないらしい
オルテガ・イ・ガセットが「道徳的感情による知性の乱れ」と呼んだ、例の「大衆的な行動」がそのまま表れているように思う。
ここから先、本当は「表現自由派」が何をなすべきか、それに対して「表現選択派」がいかなる誤謬をふりまくかを、以前の件を持ち出して詳細に語りたいのだが、いったん筆を置くことにする。
「表現を守りたい」と思う方は、「表現選択派」が、恣意的に何らかの表現規制を実際に行った際に、説得してあげられるよう準備してくれるとありがたいことだ。

ご参考までに、理系院卒で論理的な文章を書かれる手嶋海嶺さんでさえ、私と最初に対話した際に「なぜ公平なことが大事かわかるか」と質問したところ、悩んで「ロールズの主張した、無知のヴェールが……」といった発言をし始めて、私は大いに笑ってしまった。
「そのようなものは、まったく成立しない」
ことを、たくさんの事例、私の著述、書籍等から説明し、数日間で非常に深く納得していただいた。
もともと理屈で考えられる手嶋さんであっても、ちゃんと長年にわたる哲学的思想を積み重ねていないと、意外にもこんなものだったりするのだ。
「正義」「公共」や「論理的一貫性」についてこれから学ぶのも、決して遅くはない。
 
私たちにはもう、「SNS上にラーメン写真をあげるだけで会社から処分される社会」に生きているのです……。

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