「いい子ちゃん」な自分が顔を出す
「辞めたいと思っています」と口に出すことは勇気がいった。いや、口に出してないのか。アンケートで記入したのか。
でも口に出さずとも、ちゃんと自分で意思表明したことは、私にとってはかなり頑張ったことだった。
結果は、辞めると言う引き止められて(そりゃあ代わりの人を探さないといけないからね)もうちょっと考えてみて、みたいな風に終わった。2週間後に結論を出さないといけない。
「ここまで勤めたのに、辞めたら勿体無いから」
半分くらいは善意で言ってくれているであろう言葉が刺さって、私の本当の気持ちが奥に押し込まれる。
私、割と、辞めたいんだけどな。
そうか、辞めたら勿体無いのかな。
私が辞めなかったら、丸く収まるのかな。
*
他にやりたい事もできたし、モチベーションも保てないし、ストレスで体調も崩した。
辞めたい理由はいくらでもあるし、自分でも辞めるべきだと思うのだけど、いざ言おうとすると言葉に詰まってしまう。
何でだろう。本当はもっと頑張りたいんだろうか?それとも辞めた後のことに不安があるんだろうか?
さっき言われたように、勿体無いと思っているんだろうか?そうかもしれない。同じ事務の人には随分良くしてもらった。めちゃくちゃこの人が嫌だって人もいない。だから、辞めたいのは甘えなのかもしれない。
ぐるぐる、ぐるぐると思考がずっと同じところを回っていた。
そして、何かきっかけがあったわけではないのだけど、ある日突然閃いて、ストンと納得した。
私は「いい子ちゃん」な自分を捨てることに怖がっているんだ。
昔からどちらかというと優等生だったと思う。
人から怒られるようなことは回避する子だったし、褒められることも多かった。
「いい子ちゃん」でいようと思っていたわけではなかったけど、自然とみんなが喜んでくれる方を選んでいた。
だから、こういう周りの人からすると不利益をもたらすことには、酷く臆病になる。
「いい子ちゃん」でいようと思っているわけではないのに、不意に「いい子ちゃん」が顔を出して、一歩を躊躇させる。
*
去年の夏、父が亡くなった。まだ65歳だった。
優しい人だった。人の悪口を言わない人だった。定年まで、理不尽なことがあっても真面目に仕事にも行っていた。
でも、亡くなった。コロナ禍でお見舞いにも自由がきかなかった。県外に住んでいた私は、最期に立ち会うどろか、頻繁に入院するようになってからは全く会えないままだった。
この時、死に方って選べないんだなと悲しみの中で、頭でなく心の底から悟った。
父は子ども達にもっと会いたかったと思う。もっと言えば、もっと生きたかったと思う。
私はこの時に、死に方が選べないならせめて生き方は選ぼうと思った。みんな最後には死ぬんだから。全く後悔せずに死ぬなんて、きっと無理だから。
そう、だから。
自分本位に生きること。
辞めたいなと思ったら辞めること。
それの、何が悪いんだろう?
急に開き直ったというか、父が気づかせてくれた。
私のことを引き止める人たちは、私の人生に責任なんか取ってくれない。
だから、私だって自由にしていいのだ。「いい子ちゃん」じゃなくたっていいのだ。
何度だって忘れてた無限ループに陥りそうだし、いざ他人を目の前にするとやっぱり迷ってしまうかもしれないので、忘れないようにnoteに書いた。
「辞めたい」じゃなくて「辞めます」って言おう。そう決意した、日曜の夜。
月曜の朝、もしもびびっていたらこのnoteを見返そう。
「いい子ちゃん」でいて、損していい時間なんて、1秒もないのだ。びびっている時間もないのだ。頑張れ、私。
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