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ひだまりの丘 13 終

翌日、私は橘師長へ退職届を出した。


師長は「この人手が足りないときに…」と頭を抱えた後、
「でも、せっかく長く務めてきたんでしょ?今回のことが原因?だったら、私も大変だったわ。投げ出したいくらいだったわよ。」
と話した。
あぁ、この人はやっぱり自分のことばかりだなと思ったが、心を決めていたせいか私は案外落ち着いていた。
「それもありますけど、実は照子先生のクリニックに引き抜かれたんです」
師長は、「あぁ、あなたたち仲がいいものね」
と腑に落ちたように言った。
「だけど、少なくとも年度末まではいてもらいますよ。年度始まっても、新しい主任さんに色々と引き継ぎをしてもらってからになるけど」
「照子先生のクリニックは5月開業なので、それまで準備を手伝うことはありますけど、ここでの引継ぎはしっかりしていくつもりです」
想定内の条件だったので、すらすらと答えられた。
「わかったわ。看護部長に報告します」
橘師長の決まり文句、看護部長に報告が出た時点で、私は辞表を申し出るという気の重いイベントから解放されたと思った。
「…まぁ、でもさみしくなるわね」
一瞬耳を疑う言葉が橘師長から出てきて、初めて人間味を感じた気がした。
私は返す言葉が咄嗟に出ず、会釈を返してその場を離れた。

私の退職は、ぎりぎりまでスタッフ全体には伝えずにいたが、照子先生はもちろん同期の有紀子には早い段階で個別に伝えた。
その他に、長年一緒に働いてきた、パート看護師の峰岸さんや木下さん、看護助手の三ツ木さん、田中さんにもそれぞれ事前に伝えていた。
彼女達と過ごす夜勤の濃密な時間はかけがえのないものだった。
2交代勤務の夜勤は前日16時~翌日8時半までと長時間で、スタッフは看護助手を含めてたったの4名で業務を回す。
そのため、患者の急変などで大変な夜勤の日は一緒に働くスタッフは戦友みたいなものだ。
休憩時間に、それぞれお菓子を持ち寄って、愚痴を吐きつつ戦場を乗り越えてきた。
そんな夜勤を週に1回から2回程こなしつつ、主任としての業務も委員会も、後輩の新人教育や看護研究もみなければならなくて、目の回る忙しさだった。
戦友たちは、私の退職をとても惜しんで送別会をこっそり開いてくれた。
石井さんをはじめ、若いスタッフはあいかわらずよそよそしかったので、あえて彼女らを誘わず、内輪で送別会を開いてくれる配慮も嬉しかった。
皆、最近の私の体調を心配してくれた。
今は、快方に向かっていることを伝えて、お酒を一気飲みしてみせると安心してくれたようだった。
「まったく、良い人ばっかり辞めていくんだから」と峰岸さんは送別会の飲み放題のワインで顔を赤らめながら言った。
田中さんは、「そうそう。だいたい主任さんが辞めちゃったら、誰があの師長に意見するんです?」
「私だって、ちゃんと意見できていたわけじゃないよ」と苦笑いで返す。
気心が知れた人たちとお酒を飲むのはとても楽しい。
お酒の勢いもあってか、今までの色々な出来事を思い返しては、面白おかしく話した。
橘師長のあのさみしくなるわねという言葉には、「意外!」と話が大いに盛り上がった。
田無さんの話になるとしんみりしたが、最年長の木下さんの「最近の子はすぐへこたれる」という意見でまとまってしまったようだった。
私は彼女を守れなかったやりきれなさもあったが、話の流れの中でははっきりと言い出せないまま、送別会はお開きになった。
2次会でカラオケまで行って、最後に辞めてもまた連絡を取り合って飲みに行こうと約束を交わし、皆それぞれ帰路に就いた。
私は楽しさとついさっきまでの興奮の名残と、一抹の寂しさを抱えてフラフラとしていた。まだまだ飲み足りない気持ちが、その足をコンビニへ向かわせた。
いそいそと、缶チューハイやおつまみをかごに入れていると、ふと見慣れた姿が見に入った。


田無さんだった。
たまたま立ち寄ったコンビニが、田無さんの一人暮らしのアパートの近くだったことを思い出した。
向こうは一度気づかなかったフリをして立ち去ろうとしたが、私のお酒で目のすわった視線からは逃れられないとあきらめたのか、会釈をしてきた。
「田無さん、久しぶり。体調はもう大丈夫?」
声をかけ、ふと彼女のかごに目を落とすとコンビニ弁当と私のお酒より度の強い日本酒や焼酎が入っていた。彼女は今どんな生活を送っているのだろうと気になった。
「おかげさまで。今はだいぶ良くなりました。色々とご迷惑をおかけしてすみませんでした。では…」
「待って」
お酒の勢いもあり、早く立ち去りたそうな彼女を腕を掴んで引き留めてしまった。
「…主任さん、もしかしてお酒飲まれてます?」
目を丸くした彼女に問われ、頷いた。
「そう、今日送別会だったの」
「送別会って誰の…」
「私の送別会」
彼女は「えっ」と絶句したようだった。
「あのね、よかったらそこの公園で少し飲まない?田無さんもお酒を買っているようだし」
田無さんが、逡巡しながら自分のカゴと私の顔を見比べている。
普段なら、女二人で夜中に公園で飲もうとは誘わない。
でも、今彼女を捕まえておかなければ二度と会えないという確信に近い気持ちが大胆な行動に走らせた。
「えっと、少しだけなら…」
酔っぱらいを放っておけないとでも思ってくれたのだろうか。


二人でレジを済ませ、近くの公園の比較的明るいベンチに腰を下ろした。
私は缶チューハイを開け、二人の間におつまみのポテチをパーティ開けして置いた。
「よかったらどうぞ」
「ありがとうございます。よかったらこれもどうぞ」
彼女もおずおずと小さいな袋チョコを開け、置いた。
「お弁当もポテチも遠慮なく食べてね」
「あ…ハイ。じゃあいただきます」
箸を割り、おもむろにポテチを数枚箸でつかむとそのまま口へ運んでいく彼女に、手じゃないんだ…とジェネレーションギャップを感じた。
「私もね、大学病院辞めることにしたの」
「…広澤さんのことでですか?」
彼女が下を向きながら、ぼそっと聞いた。
「うーん…それもないとは言えないよ。付き合いの長い患者さんだったしね。でも、照子先生がね、クリニック開くらしくって。そこで働かないって誘ってもらったの。ずっと大学病院で働き続けるのは私も疲れたしね。」
「そうなんですか…」
彼女は幾分、ホッとした表情になった。
「多分、私のせいで本当にご迷惑をおかけしたと思うし…。石井先輩から、広澤さんのことで訴えられそうになっているって聞いて私怖くなって…」
涙ぐむ田無さんに私は今までの経過をかいつまんで話した。
「そうだったんですか…。本当にすみませんでした」
なおも謝る彼女に、「いえいえ…。ご家族は最終的にはわかってくれたから」と口下手な私は声をかけるのが精いっぱいだった。
「今は何をしているの?」
「今は、心療内科には時々通ってて、そこのクリニックが近いから一人暮らしをつづけていたんですけど…。両親が心配して地元に帰って来いって言ってくれているので、来週引っ越す予定です」
やはり、この機会を逃すと二度と会えないかもしれないという予感は当たったようだった。
「そう…。それなら今日会えてよかったわ」
そういうと、彼女は初めて少し微笑んだ。
彼女が持っている日本酒のビンの中身はほとんどなくなっていたが、彼女の顔色はほとんど変わらず意外な一面にびっくりしつつ聞いた。
「地元はどこ?」
「鹿児島です」
独断と偏見だが、道理でお酒に強いはずだと妙に感心した。
歓迎会では、控えめにウーロンハイを飲んでいたはず。こんな一面も知らないままだったのだ。
もう少しみてあげれればよかった。後悔は先に立たずだ。

日付はそろそろ変わろうとしていた。
若い女性をいつまでも、夜の公園に引き留めておくことはできず、片づけて帰る流れになった。
去り際に、ありがとうございましたとお辞儀をする彼女に言った。


「田無さん!看護師って仕事は嫌いにならないでね。いい仕事だから!」
彼女は顔をあげ、頷いたように見えた。
この先、彼女がどんな道を選ぶのかはわからない。
こんな風な声掛けは自己満足かもしれない。
でも傷が癒えたその時は、もう一度看護師という仕事にチャレンジしてほしいと思った。


私は、缶チューハイを片手にマンションへの道を歩いた。

蒼ちゃんの部屋の明かりがやさしく灯っていた。

END

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