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読みたい記事を書けているか?~自分語りが過ぎる自分への内省~
どうも、とったんです。
noteを書き始めてから、かれこれ4年くらい経っただろうか。
身の辺りの状況はあのころからだいぶ変わったと思う。
心理状況は相も変わらずだと思う。
noteを始めるきっかけ
元々、Twitterで長文を分割投稿することが増えて
「Twitterの意味ねーな!(Twitterは短文投稿が基本なので)」
と思ったので始めたのがnoteである。
中学の時にブログを始めたことがあったが、PV数の少なさ、自分の書く文章の痛々しさ、生来の飽きっぽさから全然続かなかった。
今ではすっかり黒歴史であり、今もネットのどこかで更新されず漂流しているのだろう。
そんな苦い思い出からブログへの忌避感からはてブにはいかず、
Twitterの延長線みたいな文章投稿SNSとしてnoteに白羽の矢が立ったのである。
数値で出される反響
短いものから長いものまでいろいろ書いてきたのだけど、
ダッシュボード(PV数とかスキの記録が見れるやつ)を見ていると
見られている数の差が記録としてまざまざと提示されることになる。
営業の成績とかテストの成績の張り出しみたいだ。
基本、隙あらば自分語りが大好きなぼくだが、
自分語りしてる話は良くて1000PVちょっとである。
一方でニディガのネタバレ込みの感想記事は5000PVを超え、ちょくちょくスキがもらえたりしている。
当たり前といえば、当たり前である。
知らん人の自分語りなんて誰も聞きとうない
匿名(ハンドルネームも含む)の、顔も出自もよく分からない人間の内面、思想、自分語りなんて好き好んで見ようとする人なんてそうそういない。
そもそもみんな、ぼく(いきなり自分語りする他人)に興味がないのである。
ネットの匿名掲示板の自分語りが嫌われる風潮を知っててもなおこの体たらくである。
そういう自分語りを聞いて喜ぶのは(喜んでるのかは知らないけど)すでにその人のファンだったりすでに有名で世間の注目を集めている人だったりで、何かしらの一点突破型の卓越した才能の持ち主とかでないとそういうファンはつかない。
いや別に自分語りしてるのは自己満足のためだし…と言い訳したくもなるがネットに放流している以上「見られたい」「見てほしい」「何だったら自分のことを分かってほしい」という欲求に駆られているに違いない。
自分だけが読むのなら、それこそチラシの裏か大学ノートに書き綴ればいいわけだし。
きみの文章は読みやすいか?
見てもらいたいのであれば努力、とまではいかなくとも創意工夫はいる。
それは別に面白いジョークやユーモアを入れまくれ、ってことじゃなくて。
読みやすさとか記事の見つけやすさとかになってくるとは思う。
学校の作文でいつも賞を取ってたわけでもないのなら、客観的に見て読みやすい文章になってるかどうかは気にした方がいいと思う。
日本に生まれ日本人として育ったのだから、自分で書いた日本語の文章がおかしくなるわけないだろ!と思うかもしれないがそれは勘違いだ。
一度、自分の思ったことをそのまま文字起こしして書き連ねてみるといい。
そして日をまたいで読み返してみてほしい。
文章の繋がりでどう考えても必要な言葉が抜け落ちてたり、文法や語順がめちゃくちゃな文章になってると思う。
思ったことを行き当たりばったりで書いていって、それで他人から見ても読みやすいのであればそれはもうそういう才能、つまり文才だと思うけど、ほとんどの人はそうじゃない。
読み手が混乱しないよう話の構成や順番を考えたり、補足したりする必要がある。
知らない人の文章で読みづらいとなると、いよいよもって読みたくなくなるから気を使った方がいい。考え方が好かれなくてもそこだけは丁寧にしておきたいところである。
自分に興味を持ってもらうために
最終的に自分語りを読んでほしいとしても、そもそも語る対象の「自分」を知ってもらわないといけなくて、自分を知ってもらうには自分に興味を持ってもらわないといけない。
ここで安易に自分のユーモア、面白さ(?)をひけらかそうとすると空回りすることになる。自分面白いでしょアピールほど傍から見てうっとおしいものはない。
「読みたいことを、書けばいい。」という、映画評論記事で有名な田中泰延さんという人が書いた本があるのだけど、
この本の中で「読みたい文章とは随筆、つまり事象と心象が交わるところに生まれる文章である(意訳)」と書かれている。要は「心を動かされたものについて調べて書く」ことが大事なのだ。その具体的な方法についてはこの本を買って読んでほしいのだけど。
この本でも書かれているのだけど、読者が読みたいのは書き手の内面より書き手の興味を持った対象について書き手がどう思ったかの方だということだ。
無名のオタクが自分は昔いじめられてて…みたいな話をするより、最近見たアニメや映画のここに感動してなんで感動したかっていうと…って長文オタク語りする方が読みたくなるということである。
そこに独自性があればなおのこと良い。
「分かり手」という存在
これらはTwitter上では「分かり手」と呼ばれており、「作品の良さを自分の知識・解釈から引き出してきて言語化することが出来る」存在として注目されている。だが、Twitterの場合フォロワー数が多い人の方が発言力が高い(偏見)ので、作品実況をしてて先に同じ内容のツイートをしてもフォロワーの多い人のツイートが拡散されて自分のツイートは見向きもされないなんてことはざらである。そこを僻んでもしょうがない。戦う相手とフィールドをはき違えているだけだ。
感想記事の独自性を保つのはかなり厳しい。
今やだれもが手軽に情報発信できる時代で、自分より頭が良くて知識量もすごい人がゴロゴロいる中で「気づきの一等賞は自分!」なんて言えるのは相当の自信家か単に無知のどちらかでしかない。
それでも。
それでも自分の持った感想を(自分の身の回りでもいいから)書いている人がいないと思ったら、そこが飛び込むチャンスかもしれない。
自分を語るより自分の好きなものを語ろう
結局、自分のしょうもない内面を晒して同情を誘うより、自分の好きな作品のここが好きというところを言語化して長文で語る方がみんな読みたくなるのである。
くさくさと湿気た文を書くより、これ見た読んだ、ここが良かったの方がそりゃいいに決まってる。
というか自分語りもさんざんやってきたしもういいやとはなってる。
だからできれば今後は好きな作品の好きなことについてとか解釈とか書こうとは思う。こんな本があるよってのも書こうとも思う。
そんな記事を書いてるぼくを見て「ああ、とったんは大衆に媚び始めたな」と思うのであれば、それはあなたが古参のとったんファンだからだ(?)
そんなやつはいねぇよ!
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