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短詩と随想のモノ騙り│詩小説

しんじるものはだまされる。ほ
ら、やっぱりそうだろう?でも
な、しんじなくちゃ、ねがいは
かなわない。それもまさにじじ
つなんだ。で、しんじながらも
たえずうたがうのさ。うん、そ
んなやりかたはしらなかったん
だけど、ためしてみようとね。

* * *

インドの首都ニューデリーから200キロほど北東へ行くと、ハリドワルというヒンズー教の聖地がある。

3月から4月にかけてクンブメラという12年に一度の大きな祭りがあって賑わっていたこの街も、今はパンデミックの影響で巡礼客もほとんどいない。

駅前の通りをツーサイクルのオートリキシャがけたたましく走ってこそいるものの、インドの大都市の喧騒からすれば、街は静かそのものだ。

通りからひと区画裏に入ったマヤデヴィ寺は、名前はお釈迦さまのお母さんと一緒だが、ヒンズー教の女神さまを祀るお寺で、こんな名前の重なりにも、仏教とヒンズー教の近しさがうかがわれる。

その寺の裏手の巡礼宿の一室で、男は携帯端末を持て遊んでいた。

5月も末の天気がよい日だった。外では南国の陽射しがじりじりと通りのアスファルトを焼いている。

けれどもコンクリとレンガで固められた三階建ての巡礼宿は、分厚い壁が陽射しを十分遮るので、昼過ぎになっても大した暑さではない。

ベッドが二つ置いてあるだけの十畳ほどのがらんとした部屋では、頭上で滑らかに回る天井扇がとっとぁっ、とっとぁっと規則的に音を立て、静けさに脈動を与えている。

その音に誘われるように、端末の画面にはひらがなが並んでいき、やがて短い詩文ができあがった。

がっしりと重い木造りの、素朴なベッドに載せられた発泡素材のマットの上に寝転んで、男はできあがった文章を読み返した。

そして (今日の仕事はこれで終わり) とでもいうように、大きく息を吸ってから、長くゆっくりと息を吐き出すと、端末をかたわらにおいて目を閉じた。

* * *

夜のうちに強い風が吹き、雨が激しく落ちた。

ガンジスの流れが、ヒマラヤの谷を流れてインド平原に出会った川岸に、ハリドワルの街は位置する。

ヒマラヤ降ろしの風と雨が、時折こうして熱と土埃を流し去ってくれては、街の人たちはほっとひと息をつくのだ。

昼過ぎ、頭上で回っていた天井扇が動きを止めた。停電である。

開け放った入り口の扉から、街の音が遠くで奏でる音の景色が、巡礼宿のがらんとした部屋に入り込んでくる。

トラックの立てる低く重い騒音を基底に、カラスが啼き、人が声を上げ、耳の奥で静寂が、きーんと自己主張をする。

男はベッドの上で、端末の画面にまた両の親指を走らせた。

* * *

みんなが素敵な小説を書いてるのをみると、自分でも書きたくなる。要するに真似っ子なんだ。子どもの頃から3つ上の兄貴の真似ばっかりしてたからな。

で、長く作家の真似事はしてるんだけど、小説らしい小説はほとんど書いてないから、(書きたいな) と思ったからって、そう簡単に書けるわけじゃない。大体 (書いてやるぞっ) ていう気合いがあるわけでもないし、結局みんな中途半端なんだ。

でも半世紀以上も馬齢を重ねると、中途半端なりに分かってくることもあってね。

といっても、自分のやれることには限界があるっていうまったく当然のことが、ようやく普通に認められるようになってきたってだけのことなんだけど。

だからさ、中途半端だって何だって、そんなこた一々気にしないでいいってことだよ。

掘り出したはいいけど磨きはかけられないまんまで、放り捨てられた原石の魅力ってことだってあるはずじゃないか。

もちろんこんな文章は、川原に落ちてる普通の石ころみたいなもんで、ちょっとだけ目を惹く形を仮に持ってたとしても、結局は読み捨てられていく運命なんだ。

それ以上のものなんて、何も求めてやしないさ。ほんの一瞬でも誰かの関心を惹くことができたら、それで上等ってことさね。

もちろん、自分が生きた証しが、どういう形でかは知らないけど、この世の中の片隅にでも残ったらいいなって、そういう野望は今でも持ってるよ。

それはその通りなんだけど、そんな死んだあとのことなんか考えたって、はっきり言ってそんなのただの妄想でしかないでしょ。

そのばかげた空想が楽しいってんなら、いくらでも頭の中言葉遊びしてりゃあいいんだけどさ。

そうやって考え続ける限り、ぐるぐるぐるぐるいつまでだって考えてられるんだ。人間さまの思考能力ってもんは、そういう意味ではまさしく無限なんだからね。

そうだよ、そうやって無限の力に酔い痴れてるうちに、いくらでも無駄使いできちゃうんもんなんだよ、人生ってやつは。

長くて100年ほどの有限で貴重な資産だっていうのにね。

だからって無駄使いが悪いってわけじゃないよ。どんなに立派な人生だって、終わっちまえば胡蝶の夢にすぎないんだから、無駄だろうが雪駄だろうが、時間なんか自分の好きなように使えばいいってことよ。

真っ暗闇の宇宙の中に、ぽかりと浮かんだ青い惑星(ほし)の上で、はびこりまくるヒト族の一員としては、(ああ、あれが豊穣の海とかいうやつなんだな) って物想いにふけりながら、大気のかけらも存在しないお月さまの放つ黄色い輝きを遠くに眺めて、永遠という名の刹那の一瞬一瞬を、ただ全身で味わい続けることさえできたならば、それこそもっけの幸いというもんじゃない。

それでぼくはいくつになっても、心を開くことだけは忘れないように心がけてるのさ。

もちろん人の言動がこつんとこの胸にぶつかってくるときには、うっかり心を閉ざしてはいらいらの波に飲まれ、怒りの感情に踊らされ、はたまた悲しみに打ちひしがれることだって毎度のことだよ。

でも、その気持ちの揺れが収まってきたなら、きちんと心を開き直してやるのさ。

そのためには、縮こまって、干からびて、かちかちに固まっちまった憐れな自分の心に、優しく声をかけていたわってやるのが大切でね。

するとさ、さっきまではもうぼろぼろで、ちょっと触れば粉々に砕ける以外考えられない有り様だったきみの心が、あら不思議、幾千億の神経細胞が手足を伸ばして編み上げた網の目の、一つ一つを構成するあらゆる分子にいたるまで、乾いた砂地に水が染み込むように、いたわりの暖かい気持ちが染み渡っていくのさ。

そうすればきみの心は、わざわざ開こうなんてことを考えるまでもなく、自然に自分の温もりを取り戻して、自らの力で内側から開かれていくことになる。

そしたら、嫌なことがあろうが、自分の弱点を指摘されようが、(そんなこともあるよな) 、(人にはそんなふうに見えるんだな) っていう具合に、落ち着いた気持ちですべてを受け入れることだって決して無理な話じゃないんだ。

まあ、人の話なんて、ぱっと聞いてぱっと分かるとはか限らないんで、おまけにぼくみたいなひねくれた人間の考えてることは、そうそう理解してもらえるもんでもないって、そいつもとっくに分かってることでね。

届いても届かなくても、孤独の伝言をこうやって瓶詰めにして、虚空の海原に投げ続けるのが、結局はぼくの人生の仕事なんだ。

そんなこと今まで考えたこともなかったけれど、ふと思いついてそう書いてみると、どうもこれが満更嘘でもないって気がしてくるからおもしろいじゃないか。

いやー、知らなかったねえ、ぼくの天命がこうして電網の宙空に言の葉を紡いでは流し紡いでは流しと、繰り返し続けることだったとはね。

まあそんな塩梅で、小説らしからぬ、得体の知れない文章を、素性も分からぬままに書き連ねていくことにするよ。

とにかくいずれ終わりがくるそのときまで、こうして夢をただただ紡いでいきさえするば、それだけで生きてる意味としては十分ってことなんだから。

* * *

天井扇がまた、とっとぁっ、とっとぁっと規則正しく呟きながら回り出した。

電気が途切れた時間など、まったく存在しなかったかのように、三つの金属の羽根は素知らぬ顔でくるくるくるくる回り続ける。

反対側の壁際に寄せられたベッドの上では、男の奥さんが寝息も立てず静やかに昼寝をしている。

入り口の外を見やると、日除けに垂らした橙色の布の横の隙間から、印度菩提樹の大木の葉々が日に照らされているのが見えた。

風にそよぎ、こちらに手でも振るかのように、ひらひら、ひらひらと反射光を辺りに撒き散らかしている。

取り立てて人に伝える必要もない、繰り返し訪れる日々の場面の一つひとつが、平凡で当たり前であることの、まったくの愛おしさが心に浮かび、心を打った。

(こんな感覚、今まで知らなかったな)

そう思う男の頭の中には、137億年という気の遠くなるような長さを持つこの宇宙の年齢の、寂しさと厳しさと暖かさを重ねてきた歴史の総体が、明確な形を取ることはないままに、ぼんやりとした観念の気配を帯びた影として漂い始めた。

その影は、やがて色や形を変えながら体の隅々にまで広がっていき、厚みのある実感となって、命のまだ見ぬ領域の存在をひっそりと、しかし力強く主張し始めていた。

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