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長いお休み、あるいは人生の意味と無意味のはざまで│随想詩

午後四時すぎの暑い西日の照り返しが、少しだけ開けた入り口の扉の隙間から、入り込んで床の白いタイルと、白く塗られた壁と天井をすべて淡く橙色に染めている。

北インドの小さな聖地ハリドワルは暑季の真っ盛りで、数日前までは連日36度を越えていた。

このところ雨が降って少し暑さが和らいだが、モンスーンの雨がやってきて暑さが一段落するまでにはまだ数週間かかるだろう。

砂糖抜きの渋くて熱い紅茶で喉を潤しながら、つぉんつぉんつぉんつぉんと回る天井扇の音を背景音楽にして、今日は長い休みのことを自由奔放に出鱈目気ままに書こうと思っている。

* * *

しばらくネットはお休みになるかもしれない。

というのは……。

旅行者がインドで携帯を使おうとすると、プリペイドのsimを買うことになるのだが、そうして手に入れたsimの有効期限は、ビザの有効期限と同期する。

今持っている正規のビザは昨年の7月で切れていて、けれどもパンデミックの特例として毎月オンラインで申請をすれば5週間有効のビザが先月までは簡単に取れていた。

だから今のsimの有効期限6月14までに新しいビザを取って、それを携帯キャリアの店に持っていけば、問題なく有効期限を延長できるはずだった。

ところが数日前に突然インド政府が方針を変更して、8月31日までは新しいビザを取らなくていい、すなわち、新しいビザは通常発給しない、としてしまったのである。

おいおい、ちょっと待ってよ。

……といったからと言ってインド政府が待ってくれるわけはない。

おととい以来、その辺の事情を携帯キャリアの店まで出向いて説明し、また外国旅行者の登録をしている警察関連の事務所に行って確認もしたのだが、現状simの期限延長はならず、「sim期限延長のため」という理由で改めてオンライン申請すれば新しいビザが取れると説明を受けたので、そこまでは済ませたのだが、あいにく今日明日は土日で、しかも明後日には所用でハリドワルを離れる予定。

今使っているsimが6月14日以降も使えるかどうか、極めて危うい状況なのである。

一緒に旅をしている奥さんのほうは、某所で入手した期限切れ知らずの「スーパー」プリペイドsimを持っているので、最低限のネット使用は問題ないのだが、現状のように勝手気ままにネット遊びをするわけにはいかなくなるかもしれない、という次第でありまして。

これが1つめの、ひょっとして「長いお休み」の話なのでした。

* * *

インドの人にとって川は女神さまであり、聖地である。

ハリドワルは、インドの中でも第一の聖なる川ガンジスがヒマラヤの山を降りインド平原に入った場所にある聖地なので、ここにはインド全土から巡礼客が集まってくる。

巡礼者たちはガンジスで沐浴し、罪を浄め、幸せを祈るのである。

ガンジスというのは西洋での呼び名で、インドではガンガーと呼ぶ。これはそのまま女神の名前でもある。マー・ガンガーと親しみを込めて呼べば、その意味は「ガンガー母さん」といったところだ。

巡礼者にとって、ハリドワルのガンガーは、19世紀のイギリス統治時代に作られたガンガー運河を意味する。

運河と平行してビッグ・ガンガーと呼ばれる元々のガンガーも流れてはいるが、そちらはあまり開発されていない。

巡礼宿が立ち並び、ガートと呼ばれる階段状の木浴場が整備されているのは、幅100メートルほどのガンガー運河の方なのである。

トップ画像は夕暮れどきのガンガー運河の写真を見やすいように色調調整したもので、ここで水は左から右に流れているのだが、ご覧のように高低差はほとんど感じられない。

けれどもヒマラヤから降りてくる川の水流は、力に満ちて速い。巡礼者が川に流した花や灯明は速足でも追いつかないほどの速さで流れ去ってゆく。

その滔々たる川の流れが、ぼくの心を捉えたのだ。

タイとビルマの国境を流れるメコンの茶色い濁流が力強く渦を巻く様も捨てがたいし、中国の陽朔から桂林へと川下りを楽しむ漓江 (りこう) も大陸らしい雄大さで我々を魅了する。

けれども、イギリス統治が生み出したこの人工の水路を、やや白濁した静かな奔流の押し流れてゆく様子にこそ、滔々の二文字はふさわしい。そう感じたのだ。

ヒトの頭蓋の中、脳脊髄液に浮かぶ 1,400グラムあまりの脳髄が、ちっぽけな夢、ちっぽけな欲望、ちっぽけな迷い、ちっぽけな悲しみでどんなに一杯になっていたとしても、ガンガーの水塊は日夜休みなく流れ続けて人類の無限大の愚かさをも押し流して、原初の聖浄を回復し続けるのだ。

十万年ののちに人類は滅び、忘れ去られた核廃棄物で地上が汚染されることになったとしても、その流れる場所をこそ変えることにはなるかもしれないが、水という地球環境の血流としてのガンガー女神の生命力は、決して変わることなく、淀むことなど知らぬままに百万年一日のごとく、宇宙全体から見れば米粒のように微細な青い水球の上を、うねうねうねうねと洗い浄め続けるのである。

だからぼくたちは、もう人生の目的などという存在すらあやふやなもののことを考えるのはやめて、そして人類史の不条理という理性が創り出した幻に絶望する愚も捨てて、意味と無意味のほんのあわいにだけ目を向けることにしよう。

鯨骨生物集団のように地上の誰もが知らぬ束の間の楽園を魂の深みで実現しよう。

実現?

そんなものが実現と呼べるのかって?

よろしい、実現などというリア充な言葉は捨てましょう。

我々は地獄と天国の婚姻を今ここで虚現する。

しかしこれは虚言ではない。

今きみが感じているその感覚だけが虚在するのであり、空存するのだということをきみはとうに気づいているはずだ。

だからきみは体中を走る電撃に撃たれ、丹田から溢れ出る滂沱の涙を頭頂から拭き上げ、そのいくぶん滑稽な姿にこそ神が宿ることを思い出して、腹の底から笑うのだ、全身に鳥肌を立てて、全身から力が抜けて、もう何も考えられないままに、自分と世界の境い目も分からなくなって。

そう、今ここで。

長い休みに入るのです。

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