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私家版元素たん

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リベラルアーツ教授 ジョゼフ・ブラック

 身の回りにある空気は人間にとって不可欠なもの。でも、その正体がわかったのはほんの300年前のこと。その発端となったのは二酸化炭素の発見でした。発見したのはイギリス(スコットランド)の医学博士ジョゼフ・ブラック。ただ、その探究は最初は空気でないところから始まりました。

 ジョゼフ・ブラック(Joseph Black、1728年4月16日 - 1799年12月6日)は、スコットランドの物理学者、化

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熱のことは ジョゼフ・ブラックに訊け

ジョゼフ・ブラック(Joseph Black) は、スコットランドの物理学者、化学者。 潜熱、熱容量概念の確立や二酸化炭素の発見者として知られる。(1728年4月16日 - 1799年12月6日)

「1756年に、解剖学と植物学の教授としてグラスゴー大学へ帰り、翌年に、医学の教授に。グラスゴーでは、熱に関する研究を行い、熱容量や潜熱の概念を確立した。当時同大学の数学機器メーカーであったジェームス

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まさに近代化学の先生 イェンス・ベルセリウス

イェンス・ベルセリウス(Jöns Jacob Berzelius)。スウェーデンの化学者、医師。元素記号の記法を提唱し、原子量を精密に決定した。また新しい元素を発見・単離し、種々の化学概念を創案した。近代化学の理論体系を組織化し、集大成した(1779年8月20日 - 1848年8月7日)。

「ベルセリウスは元素を電気的に陰性な元素と陽性な元素とに分類して、原子は反対電荷間の電気的引力により結合し

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常に真実を探求する人 スタニズラオ・カニッツァーロ

スタニズラオ・カニッツァーロ(Stanislao Cannizzaro)。イタリアの有機化学者、政治家。アヴォガドロの再評価を行い、周期表確立に貢献した。同時にイタリア統一運動に参加し、イタリア憲法の制定にも加わった(1826年7月13日-1910年5月10日)。

「シチリア島パレルモの生まれ。生家は名家であり、十分な教育を受けた。ナポリ大学とピサ大学に学び、特にピサ大学ではフランスの化学者ジャ

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英国化学界の堅物 ジョン・ドルトン

ジョン・ドルトン(John Dalton)。イギリスの化学者、物理学者ならびに気象学者。原子説を提唱したことで知られる(1766年9月6日 - 1844年7月27日)。

「クェーカー教徒の一家に生まれる。機織りの息子であり、地元の小学校で初等教育を受けたが、そこの教師が1778年に引退すると、12歳にして教師となった。若いころのドルトンはイーグルスフィールドのクェーカー教徒エリヒュー・ロビンソン

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アメデオ・アヴォガドロ(Avogadro, Amedeo)

イタリアの物理学者、化学者(1776年8月9日 - 1856年7月9日)。1820年にイタリア初の数理物理学教室をトリノ大学に設立したが閉鎖されると弁護士をしながら科学実験を進める。1834年に王政復古で数理物理学教室が再開されると復職。アヴォガドロは生涯、ほとんど国外では無名に等しくアヴォガドロの業績が再評価されることになるのは死後から4年後の1860年のことだった。

「1809年にヴェルチェ

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マイケル・ファラデー(Michael Faraday)

イギリスの化学者・物理学者、あるいは当時の呼称では自然哲学者(1791年9月22日 - 1867年8月25日)。

「マイケルは4人兄弟の3番目で、学校にはほとんど通っていない[11]。14歳のとき、近所で製本業と書店を営んでいた ジョージ・リーボー のところに年季奉公に入った[12]。7年間の奉公の間に多数の本を読んだ。中にはアイザック・ウォッツの The Improvement of the

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ハンフリー・デービー(Sir Humphry Davy)

イギリスの化学者で発明家(1778年12月17日 - 1829年5月29日)。

「デービーは記憶力がよく本から素早く知識を吸収した。特に好きだった本としてバニヤンの『天路歴程』があり、歴史書もよく読んだ。8歳ごろには、市場の荷車の上に立ち、少年たちを集めて最近読んだ本の話を聞かせていた。そうして詩を愛するようになった。同じころデービーは科学実験を好むようになる。これは主にクエーカーで馬具工を営ん

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