アメデオ・アヴォガドロ(Avogadro, Amedeo)

イタリアの物理学者、化学者(1776年8月9日 - 1856年7月9日)。1820年にイタリア初の数理物理学教室をトリノ大学に設立したが閉鎖されると弁護士をしながら科学実験を進める。1834年に王政復古で数理物理学教室が再開されると復職。アヴォガドロは生涯、ほとんど国外では無名に等しくアヴォガドロの業績が再評価されることになるのは死後から4年後の1860年のことだった。

「1809年にヴェルチェッリ王立大学の物理学教授を務め、大学でアヴォガドロは精力的に研究を進め、1811年に『物質の基本粒子の相対的質量とこれらの化合比率を決定する一つの方法』と言う論文をフランスの科学雑誌『コント・ランデュ(フランス語版)』に後に有名となる同圧力、同温度、同体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれるアボガドロの法則を発表した(但し「アボガドロの法則」と名付けられたのはアヴォガドロの死後のことであって、当時海外で全く無名だったアヴォガドロの論文は難解であったため学会の相手にされなかった)。1811年から1821年にかけて全4巻からなる『可秤物質の物理学』を著す。

サルデーニャ王国の国王であるヴィットーリオ・エマヌエーレ1世は、1820年にイタリア初の数理物理学教室をトリノ大学に設立し、初代教授にアヴォガドロが就任した。トリノ大学では電気、毛管現象、比熱、熱膨張の研究を進めたが、ヴィットーリオの退位直後の1822年に政治的問題で教室は閉鎖されることとなり、アヴォガドロは極僅かの年金を受け取った後、再び弁護士事務所を開いて科学実験を進める傍ら弁護士の職業に戻った。

1834年に王政復古で数理物理学教室が再開されると再び教授となり、1850年まで留まった。研究内容は気象学、計測学、統計学、度量衡であった。なお、1848年には公教育会議の議員に選出された。1856年7月9日、トリノで没した。

アヴォガドロは生涯、ほとんど国外では無名に等しくアヴォガドロの業績が再評価されることになるのは死後から4年後の1860年のこと」

「アボガドロの仮説が提案される原因となったのはゲイ・リュサックの気体反応の法則であった。 気体反応の法則があらゆる気体に成立するとすれば、同一圧力、同一温度、同一体積中の気体にはある定数の整数倍の粒子が含まれていることになる。 例えば水素2リットルと酸素1リットルから水蒸気2リットルが生成し、炭素を酸素1リットルと燃焼させたときには一酸化炭素2リットルが生じる。ジョン・ドルトンはこの実験事実自体を否定したが、アボガドロやイェンス・ベルセリウスはこの法則を認めた。 アボガドロはこの実験事実を説明するために、同一圧力、同一温度、同一体積の『すべての』気体にはある定数の粒子が含まれているとし、この粒子をmolecule(分子)と呼んだ。 アボガドロは化合により水ができるときには水素分子と酸素分子が2つに分割でき「半分子」になるとした。 アボガドロはこの半分子が2個より多くの原子からなることも考慮していたが、それまでに知られている気体反応の法則の例からは2個の原子からなると考えれば充分であるとした。 1814年にアンペールも同様の仮説を提唱した。しかしその当時は、単一種の原子のみが結合して多原子分子を形成するという考えは受け入れがたかった(ギルバート・ルイスが共有結合の概念を提唱したのが1916年、その正体が量子化学に基づきヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンにより初めて解明されたのは1927年である)」

アメデオ・アヴォガドロ

http://bit.ly/1oJ9Xfp

アボガドロの法則

http://bit.ly/1vFEJdi


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