英国化学界の堅物 ジョン・ドルトン

ジョン・ドルトン(John Dalton)。イギリスの化学者、物理学者ならびに気象学者。原子説を提唱したことで知られる(1766年9月6日 - 1844年7月27日)。

「クェーカー教徒の一家に生まれる。機織りの息子であり、地元の小学校で初等教育を受けたが、そこの教師が1778年に引退すると、12歳にして教師となった。若いころのドルトンはイーグルスフィールドのクェーカー教徒エリヒュー・ロビンソンに強く影響を受けている。ロビンソンは有能な気象学者で機器製作者であり、ドルトンに数学と気象学への興味を植え付けた」

「気体が全て原子から成ると確信したドルトンは、次に原子の相対的大きさ(直径)を求めるという問題に直面した。そして組み合わせは常に可能な限り単純なものになると仮定し、化学反応が異なる質量の粒子の組み合わせで起きるという考え方に到達した。この点が古代ギリシアのデモクリトスやルクレティウスの原子論と異なる点である[要出典]この考え方を物質全般に拡張することで倍数比例の法則が導かれ、実験によってそれが正しいことを確認した[5]。「酸素はある量の窒素またはその倍の量の窒素を化合するが、その中間の量の窒素とは化合しない」という倍数比例の法則の元になったと思われる記述が1802年11月に発表した論文にあるが、この論文が実際に出版されたのは1805年であり、その間に加筆された可能性も否定できない」

「「単純さ最大の法則」により、ドルトンは水の分子式が OH、アンモニアの分子式が NH だと推定し、それらは間違っていた。ドルトンの原子説はその根幹が不確かだったが、その原則は生き残った。確かに、化学反応において原子がさらに小さな粒子に分裂したり、原子が生成したり破壊されたりしないという原則は、原子核融合や原子核分裂の存在と相容れないとも言えるが、そういった反応は原子核反応であって化学反応ではないとも言える。さらに原子には少しだけ質量の異なる同位体が存在するため、同じ元素の原子は同じ大きさ・質量・性質を持つという原則は正確ではない。それでもドルトンの生み出した原子説は極めて重要であり、アントワーヌ・ラヴォアジエの質量保存の法則以来の化学史上の重大な進歩だった」

「ジョン・ドルトンはこの実験事実自体を否定したが、アボガドロやイェンス・ベルセリウスはこの法則を認めた。 アボガドロはこの実験事実を説明するために、同一圧力、同一温度、同一体積の『すべての』気体にはある定数の粒子が含まれているとし、この粒子をmolecule(分子)と呼んだ。 アボガドロは化合により水ができるときには水素分子と酸素分子が2つに分割でき「半分子」になるとした。 アボガドロはこの半分子が2個より多くの原子からなることも考慮していたが、それまでに知られている気体反応の法則の例からは2個の原子からなると考えれば充分であるとした。 1814年にアンペールも同様の仮説を提唱した。

しかしその当時は、単一種の原子のみが結合して多原子分子を形成するという考えは受け入れがたかった(ギルバート・ルイスが共有結合の概念を提唱したのが1916年、その正体が量子化学に基づきヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンにより初めて解明されたのは1927年である)。 ドルトンは重い気体と軽い気体が完全に混合して分離しないのは、同じ種類の原子同士に熱素による斥力が働いているのが原因であると考えており、同種原子の結合(分子)を認めなかった。 またベルセリウスは電気化学的二元論の考え方から同じ種類の原子には静電的な斥力が働くと考えていた。 電気化学的二元論は1840年ごろまで、化学の支柱的な理論として信奉された。 そのため、同種原子からなる分子の考え方が受け入れられるようになるのは、電気化学的二元論にほころびが生じてからのことであった」

「原子説を提唱する以前から科学界では有名だった。1804年、ロンドンの王立研究所で自然哲学の講師を務め、1809年から1810年にも講師を務めている。ただしその講義を聴講した者の言によれば、声が不明瞭で説明も要領を得ず、講師としてはあまり優秀ではなかったという。1810年、ハンフリー・デービーが王立協会フェローにドルトンを推薦したが、ドルトンは恐らく経済的事情からこれを辞退している」


ジョン・ドルトン

http://bit.ly/1oJifny

アボガドロの法則

http://bit.ly/1vFEJdi

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