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【短編小説】比翼双飛 ~義姉との禁断の恋


 蝉の声はやんだ。

 東の窓のレースのカーテン越しに外を見る。青い空に忘れ物のように浮かぶ小さな雲のかけらの前を、自衛隊機の黒い影がまっすぐに飛んで行く。庭の木々の葉が風に揺れいる。はるか上空の巨大エンジンの爆音が遠く聞こえた。
 エアコン温度の自動設定が作動し始める。

 貴彦の部屋で、ふたりは汗ばんだからだを横たえていた。
 スカイブルーのベッドカバーを洗濯し、畳んで、この部屋に夏代が持ってきたのは三時過ぎのことだった。

 こうなることは貴彦の部屋がノックされたときからすでに決まっていたような気がする。いや、この家に貴彦がきたときから決まっていたのかもしれない。段差のない貴彦の部屋のドアの敷居が、これまでとは全く断絶したある境界となってそこにあった。

 ふいに夏代が両掌で顔を覆った。

「義姉さん」

 片手をついて貴彦がからだを起こす。

「すいません、俺……、なるべく早く出て行きますから」

 深いため息と共に貴彦は囁く。
 夏代は手を顔から離し、貴彦を見上げた。
 すがるような、何かを訴えるような目だった。そこには歪んだ自分の顔が映っている。夏代の手が伸びる。貴彦の髪を細い指がゆっくりと撫でる。

「ごめんなさい」

 夏代は言った。

「わたしのせいだから。あなたは悪くないから」

 貴彦は首を横に振った。
 悪いのは義姉ではない。少なくとも、夏代ひとりだけが悪いのではない。間違いなく貴彦自身、こうなることを予期し、秘かに望んでいたのだ。

 ただ、現実にこうなってしまった今、これが意味することの大きさに気付き、うろたえていた。
 兄の結婚生活を壊すつもりなど全くない。父親が急死したのは貴彦がまだ高校生の頃だった。兄は社会人になって一年も経っていなかった。それ以来、父代わりとなって一家を支え、母を守り、貴彦を大学にまで進学させてくれた。
 恩義だけではない。
 貴彦は子どものころから尊敬し、慕っていた。
 その兄の家庭をどうして自分が壊してしまえるだろうか。たった一度のこと、真夏の白昼夢だとして、忘れ去るしかない。そしてすぐにでもこの家を出るべきだ。
 
 貴彦は義姉の手をそっと払った。

「お願い。出て行かないで」
 
 夏代は言った。思いつめたような硬い声だった。

「ひとりにしないで」

「兄貴が、いるじゃないですか」
 貴彦は夏代がすべてを言い終える前にそう言いかぶせた。

 夏代は首を振る。

「あのひとはひどいひとよ」

 口調が変わった。貴彦から目をそらし、横を向き、壁の向こうを透視するかのように鋭くにらみつけた。しかし次の瞬間には硬い表情は解け、ただうつろに視線を彷徨わせた。そしてゆっくりと体を起こした。

「……ごめんなさい、わがままを言っちゃったわね」

 はだけた胸元を押さえながら弱弱しく微笑んだ。

「忘れましょう」

 そう言ってベッドから滑り降りた。

 ベッドの下に落ちていた下着を拾い上げ身につける。スカートの裾を整える。いつもの義姉に戻っていく。

 遠くでまた蝉が鳴き始めた。風はやんでいた。額に滲んだ汗がこめかみから頬へ流れた。
 気がつくと貴彦は、部屋を出て行きかけた義姉をもう一度抱きしめていた。
 この夏初めて真夏日を記録した午後だった。

   *

 兄が結婚して義姉がこの家に入ると、自分の居場所を失ったように感じ、独立して一人暮らしを始めた。
 だが先月職を失い、同時にアパートの契約更新の時期も重なって、急遽戻ってきたのだ。母もすでに他界して、兄夫婦だけで生活して数年経っていた。そこはすでに生まれ育った懐かしい我が家の匂いを失っていたが、居候する身としてはできるだけ気を使わせないように、「ああ、やっぱり実家はいいね」などとうそぶきながら両腕を伸ばしソファに寝転んだ。兄は呆れたように笑い、夏代もまた眼を細め笑った。

 思えば、最初から兄夫婦の間に流れる不穏な空気を感じ取っていたのかもしれない。ふたりの笑顔を見て、この家にいるあいだはできるだけ陽気に、そして何も知らぬふりをして過ごしとおそうと思った。そしてなるべく早く出て行こう、そう思った。

 とはいえ、二階にある自分の部屋はほとんどそのままで、学生時代から使っている洋服ダンスやベッドや学習机が貴彦を出迎えてくれた。
 一人暮らしをするときには必要最小限の衣類と音楽ソフト、パソコンだけを持って出て、家具はすべて新しく買い揃えた。今回アパートを引き払う際、そのとき買った家具はリサイクルショップに買い取ってもらった。出たときと同じく、最低限の衣類と音楽ソフトとパソコンだけを持って帰ってきた。

 午前中はほぼ毎日ハローワークへ出かけた。運よく面接にこぎつけ、企業に出向くこともある。できるだけ仕事をしていたときと同じ時間に起き、家を出ることを心がけた。元来怠け者の自分が、一度朝寝坊を決め込んで生活のリズムを崩してしまうと、立て直すのが大変なのは分かりきっている。
 それでも、午後には時間を持て余してしまう。本屋や図書館、コーヒーショップで暇をつぶしてはみるが、忙しそうなビジネスマンを目にすると焦燥感に駆られ、じっとしていられなくなる。資格試験の勉強でもしようかと考えながら家へと向かった。

 家に帰ってからはたいてい自分の部屋にこもり、インターネットで求人情報を見たり、同じような求職中の人間が集まるサイトをのぞいたりするが、それにも飽きてやりたくもないゲームをやり始めてしまったりする。そして無為な時間を過ごしてしまったことを悔やんだ。やはり何か勉強でも始めようか。

 その日の午後、貴彦はそうそうにパソコンの電源を切った。
 目を閉じ、目頭を指で押さえる。瞼に焼きついたディスプレイの残像が消えるまで、しばらくそうしていた。肩を回し、大きく伸びをした。ふと窓の外を見ると庭木の緑が強い日差しに白い光の粒を散らしていた。
 夏だ。
 貴彦はエアコンを切り、立ち上がって窓を開けた。熱気がなだれこんできたが、エアコンで冷えた素肌に心地よかった。
 風もわずかだが感じられた。かさかさと葉がこすれる音がする。ざーっという音とともに湿った土の匂いが立ち上がってきた。庭を見下ろすと義姉がホースで水を撒いていた。小さな虹が傍らにできている。貴彦はしばらく飛散する水滴と虹を見つめていた。

 やがて義姉は家の中へと入っていった。黒く湿った土と湿った水を孕んだ芝生と青々とした庭木が残された。むせるほどの植物たちの息吹がある。蝉の声が聞こえる。
 しばらくして貴彦の部屋のドアがノックされた。

   *

 関係を重ねるにつれ、夏代は貴彦の子どもを望み始めた。
 しかし貴彦は常に避妊具を用意した。

「いいのよ、できても」

 事の途中おもむろに背を向けそれを装着する貴彦に、夏代は言った。黙ったまま再び夏代に覆いかぶさる貴彦は、すべてを終えた後、思いきって口を開いた。
「やっぱりよくないよね。こんなこと……」

 夏代は「分かってる」とつぶやく。
 貴彦は決心して言った。

「兄貴と別れてほしい」
「それは、むりよ」

 夏代は目を開け、まっすぐに貴彦を見た。貴彦もまた夏代を見つめ返す。
 貴彦には理解できなかった。兄と別れるつもりがないのに、なぜ自分との子どもを望んだりするのだろう。

「兄貴を愛してないんだろ?」

 ええ、と夏代は言う。

「だったら……」

「あのひとはひどいひとなの。許せない。絶対に許せない。だから絶対に自由にさせたくない」
「一体何があったの。兄貴はあなたに何をしたの」

 夏代は貴彦の言葉の途中でベッドから降りた。その横顔はこれ以上の議論を拒絶していた。貴彦が学生時代ずっと使っていた学習机の上で、夏代のスマホが震える。兄からのメールだ。夏代はすかさずそれを確認し、返信する。その背中を貴彦は見つめる。胸を握りつぶされるような痛みを感じた。

 自分はどうしてもこのひとを手に入れることはできないのだろうか。

   *

 貴彦の再就職が決まり、その祝いに夏代が食卓いっぱいに様々な手料理を並べた席で、いつになく朗らかな三人の笑顔が揃った。

「貴彦、良かったなあ」
「僕みたいな優秀な人材を世間はほっとかないんだよ」
「さすが俺の弟」

 空の大瓶が並ぶにつれ、兄は陽気に声を上げ、他愛ない冗談や、幼い頃の思い出話で笑った。もともと仲の良い兄弟だった。歳がそれほど近くないせいか喧嘩らしい喧嘩もしたことがない。
 ただ貴彦は、夏代のことで一方的に罪悪感を抱いていた。
 それに苦しんでもいた。
 兄は夏代にどんなひどいことをしたのだろうか。それ次第では罪悪感も薄らぐかもしれない。しかし兄がそんなにひどいことをするとは考えられない。何かちょっとした行き違いにすぎないのではないか、貴彦はそう考えていた。ただ言い訳を嫌う兄がうまく誤解を解いていないだけなのだ。

 いずれにせよ、ふたりがうまくいっていないのは明白だったし、夏代がもしも自分を選ぶとすれば、いつかはそれを兄に正直に伝え、納得してもらいたい、承認してもらいたいと切に願っていた。早く兄にこの隠し事を打ち明けたいと思っていた。

 しかし、今、この場だけは、そのことも忘れ、両親が健在だったころの同じ家の息子として無邪気に笑いあっていたいとも思う。
 束の間のことだと分かっていたが、できればずっとなんの屈託も持ち込まないまま穏やかな兄弟関係を続けていければと思う。
 兄を裏切り、傷つけ、自ら遠ざけてしまうことを考えたくはない。

 貴彦はビールの杯を重ねた。義姉さえいなければそんな葛藤もないのだ、と一瞬考える。こまごまと給仕するのに忙しくほとんど食卓につかない夏代が、一段落して席に着くことを貴彦は秘かに恐れた。

 夏代が兄の伴侶でさえなければ、と考える。
 夏代が兄とは全く未知の他人で、兄に自分の愛した人だとなんのためらいもなく紹介できたらどんなに幸福だろうと考えた。

「貴彦さん、再就職おめでとう」
 夏代が席に着いた。当然だが、兄の隣りに座る。ありがとう、とコップをかかげ微笑んで見せる。頬がこわばらずうまく笑えているだろうか。

「じゃあ、改めて乾杯しようか」
 兄が陽気に声を上げる。夏代は兄によりそうように首を傾げ空になった兄のコップにビールを注ぐ。斜向かいに座る貴彦は思わず目をそらした。

「もうひとつおめでたいことがあるのよ」
 麦茶の注がれたグラスを手に夏代が言った。
「なんだい」
 兄が夏代を見る。夏代はその視線を受け兄に微笑み、そして貴彦を見て微笑んだ。
「あかちゃんができたの」

 意味をのみこむのに一瞬の間を要した。
 つぎに、その内容についてこの場でふさわしい自分の反応について計算し、巧みに演じなければならないと思いをめぐらした。
 そして同時に、そのときの兄の狼狽を、貴彦は自分のもののように感じた。
 貴彦が咄嗟になした一連の思考と同じものを、目の前の兄がはっきりとした動揺のうちになしているだろうことが、手にとるように分かった。
 自分が繕わねばならないとすれば兄に対してであり、その兄が弟の心情を読むほどの余裕を全くなくしていることを見て取ったことで、逆に貴彦に観察の余裕が生まれた。

 とはいえ、貴彦自身の狼狽もまたその場に影を落とした。おめでとう、と言っては見たもののそれは自分でも分かるほどの上ずった声で、かつ白々しいほど平板に響いた。

「ありがとう」

 しかし夏代は満面の笑みを浮かべ、そう貴彦に返した。貴彦の困惑は深まっていく。

「病院には?」
 兄が言った。努めて穏やかに言おうとしているのが分かる。
「ううん。でも間違いないと思う」
「早めにみてもらったほうがいいんじゃないかな」
「そうね。明日にでも行ってみる」

 自分を気遣う夫に感謝するかのように、満ち足りた笑み兄に向ける。うなずき返す兄がどんな表情であるかを見る余裕は、もう貴彦にはなかった。

 家を出ようと決意した。もっと早く決心すべきだった。
 夏代は兄がいるときに言ったのだ。もし、自分の子どもであれば自分だけに言うはずだ。兄の子なのだ。
 夏代が宿した子が自分の子どもである望みがないわけではない。
 しかし避妊に細心の注意を払い続けていた自分には、兄への罪悪感のみならず、現実的に今の段階でそうなってはまずいという身勝手な計算もあったわけで、つまり自分自身望んでいなかった生命を、いざ現実に突きつけられたときに手放しで我がものだと望み主張しだすのは虫の良いことだと思えた。
 何よりも、夏代があの場で報告したことが、実際にその子が誰の子かということよりもずっと重い意味を持っていた。

 夏代は兄を本当はまだ愛していたのだろうか。とすれば、自分はいったい夏代にとってなんだったのか。

 いや、夫婦に愛はやはりなかったのかもしれない。ただ夫婦である以上、子供をなすためのつながりは断たれずにあった。そしてならば、子が生まれればそのつながりはさらに強く結びなおされるだろう。

 そう考えたとき、兄への激しい嫉妬心が沸き上がった。
 罪悪感が消えた。
 避妊などするべきではなかったのだ。もし夏代の腹の子が自分の子であれば、名実ともに夏代を自分のものにすることができたのに。
 貴彦は深く後悔した。

   *

 数日後、兄に呼び出され、兄の職場近くの蕎麦屋に入った。
 着物姿の店員に奥の個室へ通されると、兄はすでに来ていた。貴彦が席に座るとすぐに三千円近くする天ぷらそばのセットがふたつ運ばれてきた。新しい仕事をまだ始めていない身としては決してできない贅沢だ。

 兄は箸をつける前にすべてを話した。
「つまり想像妊娠なんだ」
 検査した産婦人科医がどれだけ説明しても納得してもらえず、もてあまして夫である兄に電話してきたのだという。
「産婦人科ではなく精神科を受診すべきです、って言われたよ」
 深いため息をついたあと、「俺たち夫婦はもう何年もないんだ」とつぶやいた。

「だからこのあいだ、あいつがあんなことを言い出したとき、一瞬浮気を疑った。心当たりのない夫にわざわざあんな報告するっていうのは、遠まわしに浮気を告白しているんじゃないかと」

 貴彦は混乱した。黙り込んだままの貴彦を見て兄は苦笑する。

「ごめんごめん、飯の前にこんな話しして。さあ食べよう。ここの蕎麦は絶品なんだ」
 そう言って膳の上の箸を取った。
 食欲はなかった。それでも貴彦も箸を取った。

「あ、もうひとつ。これはおまえにお願いなんだけど」

 兄は蕎麦猪口に汁を注いでから再び箸を置き、改まった口調で言った。
「仕事、来月からだよな」
 兄が何を言おうとしているのか見当もつかず、貴彦は緊張する。
 ああ、とかすれた声で返事をする。

「それまでのあいだ、あいつのこと頼めないかな」

 貴彦は息を飲んだ。

「あ、いや。特別に何をしてもらいたいっていうんじゃないんだ。ただ、そんな状態だからひとりきりにしておきたくないんだよ。話し相手っていうかさ、何か気がまぎれればそのうちにふっと我に返るみたいに正気にもどるんじゃないかって思ってさ」

 驚愕の表情をくずさない貴彦に、兄は柔らかく微笑んだ。
 その屈託のない笑顔に貴彦は、一瞬抱いた、ひょっとして兄は自分たちの関係を言い当てたのではないかという思いを振り払う。一度嫉妬に負けた兄への罪悪感が、また大きく膨らんだ。

「あ、ああ。そうだね」

 貴彦はなんとかそう答えて視線を膳に落とした。蕎麦の味が全く分からない。兄の話す仕事に関する四方山話もほとんど聞こえなかった。食事を終え、店を出た。兄は「じゃあ」と手を上げ、昼食時で人が行き交うビジネス街に消えていった。

 帰り道、貴彦は混乱を整理するために冷静に考えようと試みた。
 まず、夏代は妊娠していないということ。彼女は誰の子どもも身ごもってはいないのだ。

 さらに、兄は言った。自分たちはもう何年もないのだ、と。

 夏代は自分が妊娠していると思い込んでいる。今現在、夏代がからだの関係を許しているのは貴彦だけである。であるならば、妊娠していると思い込んでいるその腹の子は、貴彦の子だと当然思っているはずだ。

 夏代は自分との子どもを欲しがっていた。

 いやしかし、ならばなぜ、兄のいる前でそれを口にしたのか。

 ただ自分の子を妊娠し、それを喜んでいるのだとするならば、まず、こっそりと自分だけに話すのではないだろうか。
 産婦人科医は兄に相談の電話をかけた。当然のことではあるが、それが妙に貴彦を苛立たせた。これは夫婦の問題ではなく、自分と夏代の秘めた恋に関わる問題のはずなのに。

 ――あいつがあんなことを言い出したとき、一瞬浮気を疑ったんだ。

 兄はそう言った。もしかしたらそれを狙ったのかもしれない。自分たちの関係を兄にほのめかそうとした。
 義姉もまた兄に対し罪悪感に苛まれていたのかもしれない。告白したいができない。ならば、そうした形で遠まわしに気付かせようとした。

 いずれにせよ、夏代は夏代なりにひとり深く思い悩んだのだと貴彦は考えた。そうでなければ想像妊娠だなんて……。それは自分への想いゆえのことだと思い至ると、夏代への愛しさが激しく湧き上がった。

   *

 家に帰ると夏代がリビングで雑誌を読んでいた。オーディオセットからは静かなクラッシック音楽が流れている。

「おかえりなさい」

 顔を上げた夏代は穏やかな微笑を見せる。
 貴彦は胸が痛んだ。「義姉さん……」とつぶやく。

 ドアの前に立ち尽くしたままでいる貴彦を、夏代は不思議そうに眺めた。
「どうしたの?」
 首を傾げ、そう言ったとき、貴彦はたまらずソファに飛び込むように夏代を抱きしめた。

「貴彦さん、どうしたのよ?」
 貴彦の肩の辺りで夏代がこもった声で囁く。貴彦は力をこめ、その華奢なからだをさらに強く抱きしめる。

「痛い……」

 あえぐようなその声で、貴彦は腕の力をゆるめる。体を離し、間近で夏代の顔をじっと見つめた。
 口づける。
 途端に、強い力で胸を突かれた。貴彦はカーペットの上にしりもちを着いた。

「やめてよ」

 夏代は批難するような鋭い目を貴彦に向ける。

「まだ安定期じゃないのよ」

 子どもに言い聞かせるように夏代ははっきりとした口調でそう言った。思いがけない夏代の抵抗に、一瞬あっけにとられていた貴彦は、気を取り直して言う。

「妊娠なんかしてないんだろ」

 夏代の顔がこわばった。
「何を言っているの?」
「いいんだ。それならそれでいい。これから作ればいい。今から、今すぐ、ここで作ろうよ。あなたはいつも避妊を嫌がっていたよね。僕が悪かったんだ。僕は臆病だったよ。覚悟がちゃんとできていなかった。でも、今は違う。覚悟したんだ。あなたとのこと、ちゃんと責任を負うよ。あなただけを悩ませない」

「何を言っているのよ?」

「兄さんからは僕が話す。大丈夫。仕事も見つかったし、そりゃ兄さんほどの贅沢はさせられないだろうけど、あなたに寂しい思いをさせたりはしない」

「ちょっと、何を言っているの? 私はちゃんと妊娠してるわ」

 真面目な顔で夏代は言う。貴彦はそんな夏代を不憫に思った。しばらく黙り込み、そして静かに、穏やかに、問いかける。

「それは誰の子?」

 夏代は貴彦から目をそらす。眉間を寄せ、目を伏せる。そして小さく首を横に振った。

「兄さんとはずっとしてないんだろ?」

 たまりかねて貴彦は少し声を荒らげる。夏代はまた顔をあげ、驚いたように貴彦の顔を見つめた。

「あのひとが言ったの?」
「そうだよ」

「あのひとが、そう言ったの」

 貴彦からわずかに目をそらし、宙をにらむ。手元にあった雑誌の開かれた頁をくしゃくしゃと握り締め、破り取る。『プレママの健康レシピ』と書かれてあった。夏代は立ち上がる。

「……違うの?」

 貴彦は義姉を見上げ、突如湧き出た疑念に言葉を押し出されるように、そうつぶやいた。

「あのひとはそういう人なのよ」

 夏代はそう吐き捨てた。
 貴彦は激しく混乱した。
 嘘? 兄が嘘をついた? あいつとはもう何年もないと、そんな嘘を弟の自分にどうして言わねばならないんだ。貴彦は得体の知れない不気味な怪物に足を取られたような気がして、身震いした。

 夏代がしゃがみこみ貴彦の頭を抱いた。
 細く、長い指が、貴彦の前髪を梳き、うなじを撫でる。

「……かわいそうに。あなたもあの人に騙されたのね」

 そう囁く。

「お腹の子が誰の子なのか、夫の子なのか、あなたの子なのか、ほんとに分からないの。ひどい女よね。自分でも自分を軽蔑する。でもね、はっきりしているのはこの子は私の子だってこと。そして私はあの人を憎み、あなたを愛しているっていうこと。これだけは間違いない。信じて」

 義姉は兄の子を宿しているかもしれない。

「兄さんを愛していないの?」

 貴彦が訊く。
 夏代は答えない。

「答えてよ」

 ずっとしていないというのは嘘なの?
 兄に抱かれる夏代の姿を想像した。喘ぎ、恍惚とし、絶頂を迎える、その姿だ。自分だけのものではなかったのか。
 いやだ。渡したくない。
 貴彦を捕らえた怪物は貴彦の内部に侵食し、やはり得体の知れない不気味などす黒い感情となって叫び声をあげた。

 兄の子なのか?

 自分はずっと気をつけていたのだ。
 義姉が宿しているのは兄の子なのだ。ならば、その子を殺さねばならない。自分の子を植えつけるために堕してしまわねばならない。

 貴彦はおもむろに夏代を押し倒した。足の間に自分の腿を差し入れ、スカートをめくり上げる。
「いや! やめて!」
 夏代が叫ぶ。構わず貴彦は夏代の下着を剥ぎ取る。

「痛い!」

 夏代がからだを丸め、腹を抑えて苦しみだした。
 息が荒い。顔が異常なほど青白かった。
「おなか痛い、助けて」繰り返される激しい呼吸の合間にそう言葉をもらし、貴彦の腕を強く握り締めた。

 貴彦は我に返り、夏代の背をこすった。自分が乱暴したせいだ。
 どうしよう。
 とりあえず苦しむ夏代をなんとかしなければいけない。
 貴彦は夏代を抱きかかえ、腕や背や肩をこすりながら携帯電話で119番に連絡した。

   *

 病院には連絡を受けた兄も駆けつけた。

「よかったよ、お前が家にいてくれて」

 廊下にたたずむ貴彦に、切らした息を整えながら兄はそう言った。
 その顔を見ることができない。夏代に会うこともできなかった。貴彦は病室の前にただ立ち尽くしていた。

「入らないのか?」

 兄が病室を指し言う。貴彦は小さくうなずく。そうか、とつぶやいて閉じられた病室のスライドドアを見つめる。

「流産したと思っているそうだ。医者が言ってた。結果的に良かったのかもしれない」

 想像妊娠なんて嘘なんだろう?

 貴彦は兄の横顔を盗み見る。

 何年もしてないなんて嘘なんだろう?

 憎しみと嫉妬に狂いながら貴彦は、兄に救いを求めてさえいた。

 本当のことを教えてくれ。

「兄さん」
「なんだい?」

 兄が貴彦を見る。子どものころから変わらぬ、優しくて、聡明で、穏やかな兄その人だ。

「……義姉さんのこと」

 そこまで言って声が詰まる。兄はじっと貴彦を見つめる。

「愛してる?」

 やっとのことで貴彦はそう言った。

 兄は微笑み、「ああ」と言った。貴彦の肩に手を置き、そして病室の中へと入っていった。温かく大きな手だった。
 今度こそあの家を出よう、そう決心した。


                   〈了〉

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