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読書と翻訳(後編)

(前編はこちらからどうぞ)

槇さんの読解力のお粗末さは、「読書とはそもそも何か?」という問いを、改めて差し向けて来た気がして、しばらく考え込んでしまった。

19世紀ドイツの哲学者ショウペンハウエルは、読書について独特の考えを持っていたようである。岩波文庫に「読書について」という短い本があるが、その中に出てくる次の文章には、目が覚まされる思いがする。

いったい、学問が常に進歩すると信じたり、新しい書物には古い書物が利用されていると思い込んだりするのは、非常に危険なことである。なるほど新しい書物は古い書物を利用する。だがその利用が問題である。新刊書の著者は古人をあまりよく理解していないことが多く、しかもそれでいて古人の言葉をそのまま用いずに改悪的改善を企てて、彼自身ではとうてい思いつきそうもない古人の言葉、つまり自分の、生きた具体的知識をもとにして記した古人の明言、卓説をそこなってしまう(中略)彼にはその価値がわからず、含蓄の深さが理解できないのである。彼には平凡浅薄なこと以外は無縁なのである。金がめあてで書かれたにすぎない新刊の悪書が、仲間ぼめを幸いに、堂々と横行し、そのため、古人の良書が駆逐されることはこれまでもしばしば見うけられた事実である。学問のさまざまの領域では、だれでも自己主張のために、斬新なものを持ち出そうとするが、そのやり方をよく見れば自分の戯言(たわごと)に位置を与えるため、これまでの正しい有力な学説を反駁するのが大体ただ一つの決め手で、しばらくはこの方法で成功することもないわけではない(30-31頁)

ここで言う「古人の説を反駁するために引用して自分を権威づける」という読書法は、槇さんのケースによく当てはまる。文学と医学の双方で当時における権威だった、本居宣長を否定的に引用した上で己の説を述べている点で、先に引用した3つの文章はどれも同型の構文で出来ている。

引用自体が虚偽(デマ)であり、槇さんが宣長をまともに読めていないことはすでに述べた。ある意味で当然だろう。この読書法における他人の意見とは、己の意見を権威づけたり補強したりするための「手段」にすぎないのだから。「他者の精神が発する内奥の声を聴き取る」という、読書にとって最も基本的なことが、槇さんには出来ていない。

しかし、こうして鋭い指摘を放ったショウペンハウエルが、別の箇所で次のような説を述べているのは、いかがなものだろうか?

読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。その当人が食べたものによって肉体的に生き、読んだものによって精神的に生き、今の自分となったことは事実である。しかし肉体は肉体にあうものを同化する。そのようにだれでも、自分の興味をひくもの、言い換えれば自分の思想体系、あるいは目的にあうものだけを、精神のうちにとどめる(137-138頁)

それが読書の本質だ、と言われても、私は納得しない。精神は精神に合うものを同化する?これは裏返せば、精神は精神に合わないものを同化しない、と言うのと同じである。ならば読書とは、おのれの精神と同型の精神を、他者の精神に見つけて喜ぶ「同類さがし」なのだろうか?読書とは、すでに思想を持っているが、それに適切な言葉を与えられずにいる読者の代わりに、他者(作者)の精神がそれを言語化してあげることなのだろうか?読書とは、私に始まり私で終わる、私の知性の内で完結する堂々巡りなのだろうか?

正しく、かつ、十分ではない。読書の効用が以上のことに尽きるならば、その論理的な帰結として、おのれの思想を十全に表現できる人にとって、読書の必要はほとんどないことになる。(事実、ショウペンハウエルは本をあまり読まない人だったそうだ)

読書には別の、もっと深い効用がある。「他者の精神に入り込まれる」という経験である。難解なことで有名な現代フランスの哲学者レヴィナスを読みつづけ、翻訳しつづけた内田樹の著書「レヴィナスと愛の現象学」は、そのあたりの繊細なニュアンスを見事に伝えている。

経験的に言って、レヴィナスに限らず、テクストを読むとき、読み手はどこかで「私」であることを止めて、テクストに固有の「知の周波数」に同調してしまうときがある。そのときの状態は「テクストを私が読んでいる」というよりは、「テクストに沿って私が分節されている」というのに近い(15頁)

翻訳については、次のように言う。

テクストが論理明快で平易なものの場合、「私がテクストを訳している」という主体性はほとんど揺るがない(17頁)

問題はその逆だ。論理明快で平易な文章、ではなく、本当に深い文章を理解するには、知性だけでは十分でない。そのためには、私が私であることを止めなければならない。当の文章は、私の理解を超えたことを伝えているのだから。読書はこのとき、他者が考えたことを理解する行為では、もはやない。一定の限界を持つ知性の安定した構造、それ自体が、文章理解を妨げている。理解を邪魔しているのは他ならぬ「私」である。

私が私のままでいるかぎり理解できない対象は、くりかえし読む内に私の精神を「侵食」する。私の精神はその安定した構造を維持できなくなり、「解体」される。他者の精神は私の精神の中で息づき始める。「そのうちにやがて私は、私のものではない叙述のスタイルや思考の文法に即して自分が考え、論理を組み立て、文章を書いていることに気がつく」(17頁)。だから、極論をすればこうなる。

そういうとき、翻訳者は原著者にほとんど「憑依」されている、といってよい状態になっている。仕事を終えたあとも、テクストを通じて他者の内奥に触れてしまったという感覚、私が「私の外」に連れ出されて、未知の土地を旅したような感覚がしばらく残る(18頁)

以上の、内田樹が読書と翻訳について語ったことが、私にとって何よりも深くて重要な、読書という行為がもたらす効用である。読書とは、「私」と呼ばれている、安定した知性的な構造が解体され、憑依され、自己の限界を越えた対象を理解できるようになることなのだ。単純な言葉に言い換えれば、「私」の内容が広がって豊かになることなのである。

預言者ムハンマドは文字が読めなかった。アッラーが天より下された聖典を読むように命じられても、「読めません!」と叫ぶのが精一杯だったが、彼はついに理解し、神の言葉を伝える人になった。この飛躍を可能にしたのは彼の主体性ではない。神の声を聴き洩らすまいとする彼の敬虔な受動性であり、このことは神を他者に置き換えても通用する。ムハンマドは読書の極意を知っていたのだ。

おこがましいことを言うようだが、かく言う私も、そんな気持ちで日々読書し、時に翻訳している。今やっている「紫文要領」の読解も、宣長の事実誤認や論理矛盾を指摘して、自説を権威づけて述べることなどするつもりがないし(できないし)、宣長の精神の中から私の精神の「同類さがし」をしたいとも思わない。私はひとえに、読書によって私が「更新」され、私の内容が豊かになることに、至上の喜びを感じるだけだ。

先に引用したショウペンハウエルの、「食事の比喩」になぞらえれば、おのれの好みに合うものだけを食べて、味覚と消化機能を鈍化させるのではなく、さまざまに複雑な物の味を覚え、あえて消化しにくい食物から栄養を摂取することで、味覚の幅を押し広げ、消化機能を鍛えてゆくほうに、豊かに生きるためのヒントがあると信じているだけだ。

(終)

参考文献:
ショウペンハウエル『読書について他二篇』岩波文庫、1983年改版
内田樹『レヴィナスと愛の現象学』文春文庫、2011年

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