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渋谷にとんでもない重力があった話

みなさん、渋谷に対してどんなイメージをお持ちでしょうか?

ハチ公、スクランブル交差点、ハロウィン、109、センター街、NHK、ヒカリエ、、

多くの人にとって渋谷=人が多いというイメージはないだろうか。私自身も若者を中心にとにかく人が多い!!というイメージを持っていました。そこで私はふとなんで渋谷にはこんなに人が多いんだろうと思い、少し勉強してみたところ、渋谷にはとんでもないポテンシャルが隠されていたことがわかったのです。そして同時にインベーション、クリエイティブ、カルチャー、流行などあらゆる側面で間違いなく日本、いや世界の中心になると確信しました。

今回のnoteはそんな渋谷の未来について歴史を追いながら書いたものです。

2020年になった今、渋谷は大きく変化している時代の真っただ中であることは間違いありません。50年以上ぶりに巡ってきた東京オリンピック、100年に一度の大規模再開発、そしてだれも予想できなかったコロナショック。
間違いなく10年後の渋谷は今とは全く違う顔になっています。
小売業界の方だったら渋谷にお店を出したくなるなるかもしれません。東京に住んでる方だったら、渋谷界隈に引っ越したくなるかもしれません。サラリーマンの方だったら、渋谷にオフィスを構える会社への転職を考えてしまうかもしれません。今回のnoteはそんな内容です。


1.地形に隠された渋谷のポテンシャル

なぜ渋谷には人がたくさん集まるのだろうか。

その問いに対してのヒントは渋谷の地形に隠されています。

渋谷は漢字から分かるように完全に谷です。今は渋谷ストリーム周辺で表に出ている部分以外は暗渠(水路を地下に設けること)となっていて見えないため多くの方にとってはなじみがないかと思いますが、かつて渋谷には南北に流れる渋谷川という川が存在していてその川の侵食によってできた谷が今の渋谷なのです。欅坂46に「渋谷川」という歌があるのですが、その歌詞にも次のように表現されています。

君は知ってるかい?渋谷川って...
名前を聞いても、ピンと来ないだろう
忘れたように 都会の隅で
それでも確かにせせらぎ続ける


また今のセンター街の奥に宇田川という地名があるように、そこにもかつて川が流れていました。

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このように渋谷という街は川によって誕生した場所であり、両サイドを台地に挟まれた土地です。渋谷周辺の地名に坂や谷、丘、台などの名前が多いのは、このためなのです。

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(キャットストリートはかつて渋谷川が流れていた / 道のうねりにかすかな面影を感じないでもない)

また今のように車がない昔、水路というのは物を運搬する上で大変重要で、一般的に川の周りには町が形成されます。もちろん渋谷川も例外ではなく、東西に宮益町、道玄坂町という町場が形成されて、世田谷方面と江戸中心部を結ぶ地点として大変重宝されたのです。

渋谷が谷底であることをイメージしてもらうため宮益坂と道玄坂で断面図を作ってみるとこんな感じである。

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この図を宮益坂と道玄坂で切ったのには訳があります。赤坂から青山を抜けて宮益坂と通過して渋谷に至るまでと、そこから道玄坂へ上る道というのはかつて大山街道として知られた由緒ある道だからです。ちなみに現在の国道246の原型にもなった道です。
大山の由来は神奈川県・丹沢山地に位置する大山のことで、石尊大権現と呼ばれた大山阿夫利神社があり、農民から五穀豊穣、雨乞いの神として信仰する大山信仰がありました。そして大山信仰は商人にまで広がり江戸時代中期ごろ一大ムーブメントとなっていたのです。いまでこそ道玄坂と宮益坂は鉄道によって分断されていまいましたが、かつてはそこには立派な道が存在していて多くの旅人が行き交っていたのです。

さきほどの2つの川と大山街道をあわせてみると、すべてが交わる点があるのですが、そこは一体今の渋谷のどこにあたるでしょうか。

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勘のいい人だったらわかっちゃうかもしれません、、、、、





そこは今のスクランブル交差点にあたるのです。

Wikipediaによると今のスクランブル交差点ができたのは1973年とありますが、はるか昔から渋谷に暮らす人、渋谷を経由して旅へ出る人など、多くの人が行き交う場所であったのです。つまり昔からスクランブル交差点の原型はかなり昔から存在していたのであります。

バイオハザードやワイスピ、バケモノの子など多くの映画の舞台ともなり、2016年リオ五輪のの閉会式の際、次回開催地・東京を紹介する映像パートで東京を代表する場所として登場したり、タイムズスクエアと並んで世界的に有名な交差点として世界中の観光客が訪れたりするなど、渋谷、東京の象徴となったスクランブル交差点ですが、もともと半端ないポテンシャルがあり、今のようなスクランブル交差点が誕生するのは必然だったのです。


また渋谷をもっと広い目で見てみましょう。以下の図は東京の標高差を表したものです。

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(暖色は標高が高く、寒色は標高が低い)

東京には「下町」と「山の手」という言い方がありますが、「山の手」とは一般的に江戸時代に幕臣たちの住んでいた屋敷に加え、有力外様大名の上屋敷や中屋敷、下屋敷跡が広がっていたエリアで今の四谷、牛込(神楽坂、市ヶ谷)、麹町、赤坂、麻布近辺、小石川、本郷などがそこに当たります。上の標高差の図を見ていただくとわかると思いますが、今の皇居を左側の黄色っぽく色づけされた高台が「山の手」です。一方で、比較的低地にあった浅草や銀座、上野などの青っぽく色づけされたエリアが「下町」を指すことが多いです。

また世田谷区などは今でこそ、多くの人が住む住宅街となりましたが、江戸時代の頃は今の面影は全くなくいわゆる田舎エリアだったと言われています。そして面白いことに江戸の市中にあたる山の手エリアと山の手の外であり江戸の郊外にあたるエリアとの境目がちょうど今の渋谷、新宿当たりだったのです。郊外と市中を結ぶ中間地点が地理的に重要な場所となるのは間違いなく、人が集まってくるのも時間の問題だったと言えるでしょう。現代において渋谷、新宿に人が多いのは決して偶然ではなかったのです。

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第1章のまとめ : 渋谷がはるか前からポテンシャル抜群だった

①渋谷は2つの川と大山街道が交わる谷底で、重力に引き寄せらせるように人が集まる地形的特徴があったから

②渋谷は江戸の淵であり山の手の外と内の中間であるため、郊外と市中を結ぶ地理的に重要な地点だったから


2. 80年前、一度渋谷駅は完成した?!

そんな元々ポテンシャルがあった渋谷ですが、今のように多くの人が行き来するようになったきっかけは間違いなく鉄道の力でしょう。渋谷にはじめて鉄道が通り、その後の渋谷の発展に決定的な影響力を持つことになる渋谷駅が誕生したのは1885年です。日本鉄道会社(JR)がのちの山手線となる品川駅から赤羽駅までの路線を開通させ、中間駅として板橋、新宿、そして渋谷の駅が設けられたのです。1900年代に入るとさらに玉川電気鉄道玉川線(のちに東急が買収、今の田園都市線の前進)が1907年に開通したり、青山方面から市電青山線が1911年に延伸するなどターミナル駅の原型ができつつありました。

そして鉄道駅としての渋谷駅が大きく成長したのは関東大震災を乗り越えた1930年前後となります。1927年に東京横浜電鉄(のちの東横線)、1933年に帝都電鉄(のちの京王井の頭線)、1938年に東京高速鉄道(のちの東京メトロ銀座線)などが開通しました。

当時の渋谷駅はこんな感じです。

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1939年ごろ

今でこそ、渋谷駅は相互乗り入れが可能となっていますが、上の図を見ていただくと分かるように、渋谷駅というのは始点や終点が多いです。

それは1章で説明したように渋谷駅が郊外と市中のちょうど中間にあたるからです。鉄道駅が発達した明治から大正、昭和にかけての東京は銀座や日本橋、浅草などいわゆる下町エリアが東京の中心であったため、そんな都心エリアと郊外とを結ぶターミナル駅として渋谷は支えていたのです。

また駅のホームの位置に注目してみると、今の東急百貨店西館(2020年3月閉館)の場所にあった玉電ビルの1階に市電、2階には玉川線(のちの田園都市線)、3階には東急高速鉄道(のちの銀座線)があり、ビルの2階から省線(のちの山手線)や帝都電鉄(のちの井の頭線)につながる連絡通路もありました。そしてすぐお隣の東急百貨店(東急百貨店東館→渋谷スクランブルスクエア)の3階には東京横浜電鉄(のちの東横線)が走っていて、約80年前の渋谷駅は井の頭線と田園都市線、銀座線、東横線、山手線が分かりやすい動線でつながっていたのである。

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(戦後、玉電ビル増築後のイラスト / 80年前に完成していた渋谷駅がいかに便利であったかが分かる)

一方で当時はまだまだ上野・浅草や日本橋、銀座といった東側の街こそが「都心」の時代でした。そしてこれらの街に立地していた5大デパートこそがお金持ちのお買い物スポットだったのです。

※5大デパート : 江戸期以来の由緒正しい呉服屋をルーツとする三越、高島屋、松坂屋、松屋、白木屋

しかし渋谷の東急百貨店は5大デパートのような高級路線とは一線を画し、庶民の生活のリアリティに基づいた商品を売る店として、庶民を中心に大人気となったのです。このように特に何もなく田舎な街というイメージがあった渋谷エリアを立派なターミナル駅へと変革していったのです。

日本橋や銀座といった東側が都心だった時代のなかで渋谷は間違いなく庶民のパワーを取り入れた新しい東京の中心へと成長しはじめたのです。言い換えるとポテンシャルを生かして渋谷に人が集まるようになったのがこの頃だったということです。

第2章のまとめ : 渋谷に人が集まるようになった

①東京の中心と郊外の間という立地を生かして鉄道のターミナル駅となる
②百貨店や各鉄道会社のホームが分かりやすい導線でつながっていて、80年前に渋谷駅は一度完成していた
③庶民をターゲットにした戦略で新しい都心の象徴となる

3. オリンピックが渋谷を特別な存在に変えた

第2章までで渋谷に人が集めるインフラが整ったという話をしました。しかし渋谷のように人が集まる駅というのは新宿や銀座、上野、品川などほかにもいくつかあったのです。

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(1950年代の銀座)

そういった都市とは異なり、渋谷が特別な存在となったのは1964年のオリンピックがきっかけです。多くの人が想像できるように前回のオリンピックでメイン会場となったのは代々木エリアが中心でした。もともと代々木エリアは、戦後GHQによって設けられた米軍施設ワシントンハイツがあったため、その広大な土地を利用したのです。ワシントンハイツとは米軍の駐留家族が暮らす住宅地で、日本人が足を踏み入れることが許されない禁断のアメリカ村でした。

面積は92万4000平米にも及ぶ広大な土地だったのですが、これがオリンピックを機に返還され、選手村や国立代々木競技場に生まれ変わったのです。また渋谷からもうひとつの会場である駒沢エリアまでを結ぶ国道246号線(青山通り、玉川通り)が整備拡張させるとともに、港区方面から渋谷へ至る首都高が開通し、渋谷駅の山手線上を高速が横断するダイナミックな風景が誕生したのです。

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(前回の東京五輪の際の代々木競技場)

そしてオリンピックが大成功に終わると、オリンピックという国家的イベントによって、渋谷を含む代々木エリアの価値が大幅に格上げされ、土地のブランド化が進んでいったのです。中でも渋谷エリアが特別な存在になるダメ押しをしたのが、NHKの渋谷移転です。日本の主要放送局であるNHKが渋谷に移転したのはオリンピックのためで、この頃一般家庭に普及しつつあったカラーテレビで渋谷が大きく映し出されたことは、単にメディアでの露出が高かった以上のとてつもない価値を渋谷にもたらしたのです。

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(カラーテレビの普及し始めたころNHKが渋谷に移転する)

そんなオリンピックによってブランド価値が上がった渋谷エリアを民間企業も黙ってみているわけがありません。東急グループvs西部グループの全面戦争が始まったのです。1973年にパルコが誕生しましたが、パルコは西武系の企業で、モノを売るだけでなく、文化を売ることをベースに企業ブランドを確立していきました。パルコはパート2、パート3と拡大。パルコ劇場やライブハウスのクラブクアトロを始めとするエンターテイメント施設もオープンさせ、若者文化の拠点をつくることで人を集めようとしたのです。

それまで渋谷の帝王として君臨していた東急も負けていません。1978年に東急ハンズ、翌79年に渋谷109をつくり、10代、20代をターゲットに新たなスポットを提供しました。

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109

両社に共通することは商業施設をただ集約するだけではなく、文化施設を作ることで人を集める戦略を取ったことや若者をターゲットにしていたことです。なので渋谷=若者の街というイメージがついたのかもしれません。

特に若い女性の聖地である109は渋谷駅から見ると川の流れのような坂道を登った先に、円柱型のファッションビルが建っていて、多くの人の脳裏にインパクトを与えたのです。またそういったイメージを全国の人に広げたのもNHKが渋谷を拠点にしたからこそかもしれません。

以上のように、オリンピックによって大きく価値を上げ、日本の中心になりつつあった渋谷エリアですが、渋谷とは切っても切れない関係である原宿についても同時期の様子についてみていこうと思います。

原宿は名前の通り、昔は原っぱにある宿駅でした。宿駅とは鎌倉時代以降に成立した主要街道の物流・人流拠点、宿泊所のことを指します。なので武蔵野特有の雑木林におおわれた広大な土地に、渋谷川は流れていて、そこに宿駅を中心とする集落がぽつんとあるようなイメージとなります。

時は流れ、戦後になると上記で説明したように代々木エリア一体はワシントンハイツとなります。

<ワシントンハイツ> Wikipedia
連合国軍占領下の日本において作られた、アメリカ空軍およびその家族のための団地のこと。東京・代々木の92.4万平米に及ぶ敷地には、兵舎のほか、駐留軍人とその家族が暮らすための827戸の住宅、さらに学校、教会、劇場、商店、将校クラブなどが設けられていました。1946年に建設され、1964年のオリンピックを機に日本に返還されて取り壊されるまで存在しており、同地は現在、代々木公園、国立代々木競技場、国立オリンピック記念青少年総合センター、NHK放送センターなどとなっています。

そのため、今の原宿周辺は当時外国人客を相手にするお店が並んでおり、たとえば、キャラクターグッズでおなじみの「キデイランド」は、ワシントンハイツに住む外国人に向けて、本や雑貨を販売するお店だったようです。そして玩具も取り扱っており、ワシントンハイツ住む子どもたちが、こぞってハロウィングッズを購入したことが今の渋谷でのハロウィンの起源だと言われています。また今は高級スーパーとして有名な青山通りの「紀ノ国屋」も、ワシントンハイツに住む軍人の奥様御用達の食料品店として人気だったそうです。

そしてその時代には珍しかった海外の商品などが日本人でも手に入れることができたり、アメリカの最先端のカルチャーを感じられるということで、当時の原宿周辺には徐々に感度の高い人々が集うようになっていきました。それは今の若者がアメリカに影響を受け、アメリカかぶれになるのと同じような気がしてます。

またワシントンハイツがなくなったオリンピック後もそういった雰囲気は引き継がれていきました。特徴的なエスカレーターが印象的な今の東急プラザの場所にあった外国人用の高級賃貸マンションとして建設されたセントラルアパートは、オリンピックをきっかけに、ますます異国の雰囲気を漂わせ、最先端の街へと進化した原宿周辺に魅了されたクリエイター達が、この場所に事務所を構えたり、1階にある喫茶店「レオン」に集うようになりました。

<原宿セントラルアパート> Wikipedia
かつて東京・表参道にあった住宅・商業施設である。原宿地区にあって1960年代から1970年代にかけての若者文化を象徴する建物のひとつとして知られる。アパートは上層階に事務所、下層階に店舗が入居するという形態になっていて、アパートにはカメラマン、コピーライター、イラストレーターなどのクリエーターが多数入居、ここに事務所を構えることが文化人のステータスとなっていました。また、1階に入居していた喫茶店 『レオン』は、タモリをはじめ、マスコミ関係者が多く集まることで知られていました。

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(今は東急プラザ表参道原宿となる)


そしてファッションでいう『原宿カルチャー』は個人ブランドが集まって作り上げているという印象が強いですが、それは元をたどれば、セントラルアパートの小さなスペースで、クリエイターやファッションデザイナーが自分の作品を表現したことがきっかけだったのです。

その後、1980年代ぐらいから原宿で若者文化が爆発したのはみなさんも容易に想像できるかと思いますので割愛しますが、すべてのきっかけはこのアパートからはじまったといっても過言ではありません。

(若者文化を表現した個人的に大好きなムービー / 原宿や渋谷、主・参道が舞台となる)

つまり原宿エリアというのはもともとワシントンハイツがあったことから海外の雰囲気が流れたおしゃれでハイソなイメージがあり、さらにオリンピックを機に渋谷エリアがさらに注目されるようになったことで、多くの若者が集まるようになりました。また同時期に原宿にあったセントラルアパートは若者文化の象徴として多くのクリエイターが夢見た場所となっていったのです。

第3章のまとめ : 渋谷エリアが若者を中心とした特別な街へと変化した

①渋谷はもともと多くの人が集まる街であったが、オリンピックを機に大幅に価値をあげる

②東急や西武などの若者をターゲットにした渋谷の開発や原宿のワシントンハイツ由来のおしゃれさが多くの若者の注目を集め、同時に多くのカルチャーが誕生するようになった


4. 迷宮からの脱出と無限の可能性

第3章ではただ人が多く集まっていてダサいイメージすらあった渋谷エリアがオリンピックを機に生まれ変わり、若者文化を象徴する特別な都市に変貌したことを説明しました。この章ではそのさらに先を見据えた今後の渋谷についてみていこうと思います。

昭和の後期というのは渋谷は若者の街になりましたが、もうひとつの側面として渋谷駅の迷宮化が進んだ時代でもあります。

戦後、高度成長期を迎え、東急文化会館と東急プラザ渋谷が渋谷駅の東西にビルが建ち、東横百貨店も増築され、メインストリートだった大山街道も、宮益坂上から渋谷駅南へ抜ける新しいルートが作られ、六本木通りと合流し、上に首都高速3号線が走るようになりました。それにともない渋谷川は完全に暗渠化され現在の渋谷駅の原型ができました。そしてまだ路面電車だった東急玉川線が1977年に地下化されて、東急新玉川線(今の田園都市線)として開通したのち、東京メトロ半蔵門線と直通、地下3階にホームがつくられていきました。

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昭和後期の渋谷 参照元 :&nbsp;https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00085/090400003/?P=5

また渋谷という地形の特性上、昔からあった鉄道は基本的に地上にあります。JRは地上2階の高架を通り、地下を通るはずの地下鉄銀座線はJRよりさらに上の3階、反対側からやってくる井の頭線も地上3階を突っ切ってます。そして追い打ちをかけるように宮益坂上から東西に首都高が開通しました。

つまり渋谷駅周辺は完全に6つのエリアに分断され、高低差もある非常に複雑な駅となっていたのです。

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その後1999年に西口のスクランブル交差点向かいにQFRONTが、2000年に井の頭線渋谷駅を内包する渋谷マークシティが開業したものの、うえのイメージのような6つに分断された多くの人にとっての渋谷駅の骨格は1970年代ほぼほぼ完成していたといっていいでしょう。

今はちょうど2020年なので、そのころから約50年ほど経過しました。渋谷を普段利用する方だったら、イメージ湧くかと思いますが、今の渋谷駅はそういった50年ほど前に作られた建物の建て替えなど大規模再開発が絶賛進行中となっています。

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(東急株式会社の公式HP参照)

まずは今、進んでいる再開発についてひとつひとつ見ていこうと思います。

2012年に完成した渋谷ヒカリエは「東急文化会館」跡地に建設させた複合施設で、東急東横線/東急田園都市線の渋谷駅と地下で直結し、低層部には東急百貨店が運営するShinQsやカフェ・レストランフロアdining6など、中層部には東急シアターオーブやヒカリエホールなどの文化施設、高層部にはディー・エヌ・エーなどが入居する業務施設がゾーニングされ、それらを立体的に集積しています。誕生してから8年ほど経過し、今では渋谷における情報・文化の発信拠点として渋谷のランドマーク的存在となっています。

(渋谷ヒカリエ)

2017年にオープンした渋谷キャストは明治通りとキャットストリートの合流地点にあった「都営宮下町アパート」跡地にあり、クリエイティブ産業の街“渋谷”を世界に発信するクリエーターズ・プラットフォームがコンセプトとなっております。明治通りとキャットストリート、渋谷と原宿の文化が融合する同エリアは、暖流と寒流がぶつかり合う潮目にも似ていて、多くのクリエーターたちが集い、交流や活動が盛んに行われる創造拠点としての役割を期待されています。

(渋谷キャスト)

2018年にオープンした渋谷ストリームは東横線と東京メトロ副都心線の相互直通運転による地下化をきっかけに渋谷川の水辺空間の整備とともに誕生しました。名称は付近に渋谷川が流れていることから流れや小川を意味する「STREAM」にちなみ、渋谷川を挟んで西に旧東急東横線の高架、東に明治通りを臨む場所にあります。渋谷駅周辺で唯一川が地上に顔を出し、渋谷と川の深いかかわりを感じさせてくれるエリアで渋谷のオアシスともいうべきスペースとなっております。従来、渋谷の顔といえば、センター街やスクランブル交差点側をイメージする人が多く、反対側に位置する渋谷駅南口は渋谷の裏として、独特な雰囲気を持った場所でした。今回の渋谷ストリーム開発による明るい水辺空間の創出は、渋谷駅直結の好立地な商業エリアを生むだけに留まらず、恵比寿・代官山方面への人の流れを生むことも期待されています。また渋谷ストリームのオフィス部分にはGoogleが事実上の一棟借りで入居しています。これまでは六本木ヒルズに居を構えていましたが、IT企業の集積地である渋谷にGAFAが移転するということでビックニュースとして報じられました。

(渋谷ストリーム)

そして2019年に一部オープンして大きな話題となったのが、渋谷スクランブルスクエアです。JR渋谷駅と旧東横線渋谷駅の駅舎、および駅に直結する東急百貨店東館・西館・南館などの商業施設全体を建て替える計画が渋谷スクランブルスクエアです。現在は東棟のみ開業しており、2027年頃までに中央棟、西棟も含め、すべてがオープン予定となってます。「渋谷の顔」となる玄関口がすべて一新され、特に東棟の高さはセルリアンタワー(約184m)、渋谷ヒカリエ(約183m)の高さを50m近く上回り、渋谷最大級の商業施設となっています。屋上には展望施設があり、スクランブル交差点を上から見れるほか、スカイツリーや富士山なども一望できてしまい、東京の顔、渋谷の顔として、観光面の効果が期待されています。

(渋谷スクランブルスクエア)

またほかにも渋谷カルチャーの象徴であった、渋谷パルコの建て替えであったり、

大人を楽しめる渋谷へをコンセプトに、空港リムジンバス発着場を含むバスターミナルを整備させる新生東急プラザ渋谷もできたり、

他にもたくさんありますが、渋谷駅周辺にはたくさんのビルや商業施設が誕生しつつあります。

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(東急株式会社 公式HP参照)

こういった渋谷周辺の大規模開発において個人的に鍵を握るポイントだと思うのは、「アーバンコア」「面への回遊性」です。

アーバンコアとはエレベーターやエスカレーターにより多層な都市基盤を上下に結び、地下やデッキから地上に人々を誘導する垂直方向の導線のことです。そんなアーバンコアポイントが渋谷駅周辺に合計9つ設置されることになっています。これが完成するとタテ方向への移動が大幅に改善されることで、立体都市である渋谷の回遊性が大幅に改善することになります。

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(東急株式会社の公式HP参照)

こうなると、今まで無かった人の流れが誕生することで新たなカルチャーの融合であったり、客層の大幅な多様化が進んでいくのです。

そしてアーバンコアができることで6つに分断されている渋谷駅が解消することにつながります。そうなると点ではなく面への回遊性が高まり、渋谷駅を中心とした周辺地域への人の流動も大きく増加することになります。それは東急のHPでは広域渋谷再開発と呼ばれているのですが、具体的には原宿、表参道、青山、代官山、中目黒、恵比寿などの個性豊かな街を渋谷とシームレスにつながっていけるようにすることです。つまり従来分断された迷宮駅だった故に、あきらめられていた他エリアへの移動がどんどん増えていこうとしているのです。

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(東急株式会社の公式HP参照)

もちろんそういった周辺エリアでもどんどん開発が進んでいて、いろんか個性豊かなカルチャーが誕生する土壌が整いつつあります。例えば、代官山葉面には渋谷ブリッジやLOG ROAD DAIKANYAMA、原宿方面ではキュープラザ原宿やウィズ原宿、オリンピアアネックスなどができるのです。

少し前まで渋谷という街は、谷の地形で坂道が多く、かつ駅が複雑がゆえに
ある程度の年齢になったら、大人には厳しいといった声がたくさんありました。しかしここ10年の開発が終わると、タテへ移動が分かりやすく、楽になり、かつ周辺の魅力的な街とのつながりもできるので、多くの大人が渋谷に集まってくることでしょう。

またこれだけ大きな商業施設がたくさん生まれ、かつ従来のような若者イメージだけではない多様な人が集まってくるであろう渋谷という街は無限の可能性が隠れていると言えます。

まとめ : 迷宮からの脱出と大人も集まる街「渋谷」への変貌

①地上2階、3階を走る鉄道や首都高によって渋谷周辺は6つに分断されていた

②2027年までに渋谷駅周辺のビルはほとんど生まれ変わる

③アーバンコアと呼ばれるタテへの移動が簡単になることで6つの分断が解消され、新しい人の流れが生まれる

④原宿や代官山といった周辺エリアとのヨコのつながりが強化されることで大きな相乗効果が期待される

⑤若者が多いイメージから大人も訪れる東京の中心地へと変貌する


5. 今後のSHIBUYAに期待すること

もともと何もない田舎エリアだった渋谷が第4章までで説明したように、多くの人が集まる東京の中で唯一無二の都市へと変貌していく過程を説明していきました。

特に最近では大規模開発が進んでいて、若者だけでなく多くのひとにとって魅力的な街になりつつあります。まだスクランブル交差点が日本の象徴として多くの映画にでたり、空港バスの乗り場などが整備させるなど観光都市としての渋谷も期待されています。また少し歩くと超高級マンションなども続々と建設中で、ひと昔前の渋谷とは全く違う様相へと変わっているのが今のリアルな渋谷です。

こんな渋谷に私が今後期待することが2つあります。

①クリエイティブの源泉地となること
②人が集まり続けること

渋谷は駅を中心に放射状に伸びる無数の小さな通りが集まってできています。例えば、公園通り、センター街、文化村通り、ファイヤー通り、キャットストリート、バスケットボールストリート、スペイン坂、オルガン坂、ハンズ通り、ペンギン通り、イエローストリート、無国籍通り、井の頭通り、.......などとたくさんあり、渋谷を利用したことある方ならいくつかは聞いたことがあると思います。また地図を見ると通りの配置は雑然としていてまっすぐな通りがほとんどなく、道路の名称もカタカナやアルファベット、漢字など乱雑です。これは、行政や特定の大企業が指揮を執って生まれたわけではなく、自然的発生的に生まれたからこそと言えるのではないでしょうか。

ここで言いたいことは渋谷の一番の特徴は多様なカルチャーが自然発生的に誕生し、広く浸透して、いずれ日本のカルチャーにまで成長させてしまう場所であるということです。

そのため私はまず渋谷に期待する1つ目として、常にクリエイティブやカルチャーのの源泉になり、そしてその多様性を許容する器の大きさを持ち続けてほしいということです。

また今回のコロナをきっかけに多くの人がものを買うだけならeコマースで十分であり、仕事も別にわざわざオフィスに行かなくてもデジタルで完結してしまうことに気づいたことと思います。それは便利な世の中になった証拠であるのですが、自分とは全く違う価値観やカルチャーを持った人とは自分が自発的に動かない限りなかなか触れ合う機会がなくなる側面があることも理解しておく必要があります。

そのため私が渋谷に期待する2つ目としては、そんなアフターコロナの時代であっても、常に日本中から、世界中から人がうんざりするほど集まる場所であり続けてほしいということです。

つまり今後も自分とは全く異なる人間とつながり、創造し、発信する。ここに来れば何かが始まる、そんな予感に溢れた“たまり場”を提供し続けることこそ渋谷の役割ではないでしょうか。

さいごに

「渋谷という街は何か特殊な重力があって人がたくさん集まってくる」という方がいましたが、渋谷の歴史を勉強してみるとなかなか的を得ていて私も完全に同意しちゃいました。そんな特殊な重力が日本の中心地にあることはとんでもない可能性に満ち溢れていていると解釈してみてはいかがでしょうか。

私は渋谷が世界から注目される世界No1の都市になる未来がそう遠くないと確信しています。


おしまい。


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