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徳川家康と本多正信|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか? 【戦国三英傑の採用力】

人手不足と人材不足は違う。

“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。

コロナ禍以前は全国的に“人手”不足が注目されていたが、コロナ禍以降、激動する経営環境の中、“人手”は足りているものの、思い切った事業再構築などに挑戦する“人材”不足も深刻な課題となっている。

戦国という激動の時代、武将たちは権謀術数の限りを尽くして覇権を争ったが、この激戦を制するカギは武勇のみならず知略に通じた“有能な武士”たちをいかに確保し、定着させ、起用するかだった。

人材こそがすべて――これは現代ビジネスでも変わらない。

戦国三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとに、なぜ“優秀な人材”が集まったのか?
彼らを支えた重臣を中心にみていきたい。


出戻りはアリかナシか

かつて日本の企業の多くは、自らの意思で辞めた者に対して〝裏切り者〟というレッテルを貼った。

「二度と、わが社の敷居をまたぐな」

新卒一括採用・年功序列・終身雇用といった日本独自の雇用システムが機能していた、バブル経済の華やかなりし頃の話だ。戦後日本を支えた彼らは、仲間意識が強く、連帯感が強かった。

昨今は雇用の流動化の影響もあり、一度、辞めた社員――〝出戻り社員〟を再雇用する風潮が高まっている。企業が彼らを受け入れるメリットは「即戦力として計算できる」「採用・教育コストが少なくて済む」などがあり、デメリットには「既存社員の反発やモチベーションの低下」「既存社員に〝辞めてもまた採用してもらえる〟というイメージがつく」などがあげられた。

「何を今さら――」

〝出戻り社員〟の受け入れが増加傾向にあるとはいえ、少なからず、既存社員の反発はありそうだ。

徳川家康(1542〜1616)が内政・外交の両面で頼りとした本多正信(1538〜1616)には、家康を〝裏切った〟過去があった。にもかかわらず、彼は許されて帰参し、家康の側近として活躍している。

いったい、どのようにして家康は正信を受け入れ、正信は〝帰り新参〟として立ち居振る舞ったのか。

「皆、余の家臣である」

駿府の今川義元(1519〜60)もとで人質生活を送っていた家康が本拠地の三河に戻ったのは、永禄3年(1560)のこと。同年、桶狭間の戦いで義元が織田信長(1534〜82)に討たれたからだ。

家康は生涯、健康管理の一環として鷹狩りをつづけたが、彼が三河に戻った頃、正信は鷹匠として徳川家(当時は松平家)に仕えていたという。ときに家康20歳、正信24歳。

やがて家康は徳川家の主君として、尾張の清須城で織田信長と同盟を結ぶ。いわゆる「清須同盟」だ。

家康は数年先の将来を見据え、家臣たちに「今川家からの独立」というビジョンを示し、信長が率いる織田家と組むことが〝家〟の存続につながると決断。そのうえで彼は三河平定に着手した。

永禄6年、家康は三河平定の過程で一向宗の門徒が衝突する。これを「三河一向一揆」という。

当時、三河では一向宗(浄土真宗)門徒が大きな勢力をもっていた。

摂津石山(現・大阪市)の本願寺を本拠地とした一向宗は、長引く戦乱に疲弊した庶民たちの心の拠りどころとして、全国各地に広まっていた。徳川家中にも一向衆の門徒が多く、正信もその1人。このとき彼は家康を裏切り、一揆方に荷担する。

この戦いの最中、家康は一揆勢の放った鉄砲の弾が被弾するなど苦戦を強いられたが、翌永禄7年には和議に持ち込んだ。彼は一向宗についた家臣たちに言う。

「いまでも皆、余の家臣であることには変わりはない」

このとき家康が罪は問わないという触れを出したこともあり、抵抗した多くの家臣が帰順した。

そんななか正信は、家康のもとを離れ、諸国遍歴の旅に出る。やがて彼は畿内で勢力を拡大していた松永久秀(1510〜1577)に仕え、松永家を辞したあと、加賀(現・石川県)へ潜行して「加賀一向一揆」を先導したともいわれるが、その正確な足取りは伝わっていない。

正信が家康に許されて帰参した時期は、早くて「三河一向一揆」から7年後の元亀元年(1570)頃、遅くても天正10年(1582)頃とされる。いずれにせよ、正信が歴史の表舞台に登場するのは、甲斐の武田家が滅亡し、本能寺の変が起こった、天正10年前後だ。

裏切り者が帰ってきた

家康の家臣団といえば、〝三河武士〟を中心として結束が固く、家康への忠誠心の強さで知られた。

そこへ過去に主君に刃向かった〝裏切り者〟が何の功もなく戻ってきたのだ。当然、正信を見る周囲の目は冷たく、受け入れられなかった。加えて彼に武芸や戦場での采配に才があったわけでもないから、相当、居心地は悪かっただろう。

天正10年(1582)6月2日に起こった「本能寺の変」は、羽柴秀吉(のち豊臣、1537〜98)や家康のみならず、数多いた戦国武将のターニングポイントになる。正信にとっても、そうだった。

本能寺の変後、武田家の旧領が統治者不在の空白地帯となると、家康は家臣団を派遣して迅速に占領した。このとき正信は甲斐の統治にあたり、戦国最強と謳われた武田家の遺臣たちに本領安堵の書状を発行。彼らに権利を与えることで家臣団に取り込んだ。彼が徳川家中で頭角を現すのは、この頃からだ。

さらに正信が家康の側近となるきっかけの一つに、石川数正(?〜1592)の出奔事件があった。

数正といえば、家康が今川家で人質生活を送っていた頃から酒井忠次(1527〜96)とともに近習として仕え、長年、苦楽をともにしてきた重臣だ。そんな数正が天正13年の家康と秀吉の直接対決――小牧・長久手の戦いのあと、豊臣方へ謎の出奔を遂げた。一説に秀吉によるヘッドハンティングともいわれる。

さすがの家康も狼狽した。そして彼は傍らにあった正信に問うた。

「数正のあと、岡崎城は誰に任せればよいか?」

帰参後、正信は客観的に徳川家中の人材をみていたのだろう。彼は間髪を容れずに即答した。

「本多重次殿はいかがでしょうか」

正信と重次(1529〜96)に血縁関係はない。重次の通称は作左衛門。彼は家康の祖父・清康の代から仕えてきた重臣で、剛毅な性格と振る舞いから〝鬼作左〟と呼ばれた人物だ。正信は、主君を失って動揺する岡崎城の家臣たちを統制するには、規律に厳しい性格の重次が適任と考えたようだ。

家康は正信の意見を採用し、以後、重要案件は常に正信の意見を聞くようになったという。

天正18年の小田原征伐後、秀吉によって家康が関東へ移封されると、正信は相模国玉縄(現・神奈川県鎌倉市大船)に2万2千石の所領を与えられて大名となる。ちょうどその頃、家康と重臣との間で「力ずくで秀吉を攻め立てた場合、どこまで攻め上がれるか(西上できるか)」という話題になった。

わが主君が秀吉に劣らないと信じる家臣たちの議論は熱を帯びたが、正信だけが議論に参加していなかった。家康が正信に目を向けると、彼は無言のまま首を左右に振り、家康は黙ったまま頷き返した。

秀吉の対家康包囲網は背後に仕掛けがあり、関東の後方に名将・蒲生氏郷(1556~95)がいた。家康は動きたくても動けなかったのだ。そのことに気づいていたのは家康と正信の2人だけだったという。

また、秀吉の死後、加藤清正(1562~1612)ら武功派が石田三成(1560~1600)ら官僚派に抗争を仕掛けたとき、窮地に陥った三成が家康に助けを求めたことがあった。正信は家康に耳打ちする。

「いま三成を殺してはいけませぬ」

彼は、三成を助けることで反徳川陣営の大名をあぶり出し、挙兵させ、これらを一度に一掃できれば家康の天下取りが早く済むと計算した。

正信には、将棋の名人が何手も先を読めるのと同じように、先の先までを見通す力があったようだ。

あえて嫌われ役を演じる

やがて家康は、正信を朋友のように扱うようになる。彼の正信への信頼は深く、帯刀のまま寝所へ入ることを許したほどで、2人の関係は「君臣の間、水魚の如し」などといわれた。

ただ、戦場での活躍を第一とする本多忠勝(1548〜1610)や榊原康政(1548〜1606)などは〝帰り新参〟の正信を認めず、「腰抜け」呼ばわりをするなど露骨に嫌った。

そんななか、正信はどう立ち居振る舞ったか。彼は自らが周囲に嫌われていることを自覚したうえで、一見、見当はずれな言動をしてでも、徳川家の発展を優先した。

関ヶ原の戦いの前夜、下野小山で三成挙兵の報せを受けた家康は、まず三河以来の譜代の家臣のほか、直臣だけを招集して軍議を開いた。正信は「箱根の嶮を固く守り、東上する西軍を迎え撃つ」という消極策を進言したが、周囲は井伊直政(1561〜1602)の「勢いに乗って西上すれば、決して我らは敗れませぬ」という積極策を支持し、家康も直政の意見を採用した。

このとき正信は、天下分け目の決戦を前に徳川家中の士気を高めるため、あえて真逆の消極策を進言をしたという。さきの三成のエピソードも含め、関ヶ原の戦いは、正信が演出したといえなくもない。

その後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍として江戸に幕府を開く。2年後、彼は秀忠を二代将軍に据え、徳川幕府が世襲制であることを宣言し、秀忠の後見として正信を江戸に置き、自らは駿府に入って大御所として天下の実権を掌握した。

そして残されたのが、秀吉の遺児・豊臣秀頼(1593~1615)の処遇問題だ。

家康―正信主従は豊臣家を無力化し、秀頼とその生母・淀殿(1567~1615)を大坂城から他へ移して平和裡に政権を移行しようとしたが、豊臣方がこれに応じず、大坂の陣へ突入する。

慶長19年12月、天下一の巨城――大坂城に対して攻城戦が容易ではないと考えた2人は、冬の陣が休戦となるや講和の条件として外堀と三の丸、二の丸(内堀)を一気に埋めた。そして翌慶長20年5月の夏の陣で、裸の城となった大坂城を攻め、たった2日で決着をつける。

家康は三河以来の譜代の家臣を重用したといわれるが、天下取りの過程で多くの優秀な人材を取り込んでいた。彼は譜代の家臣に気を遣いつつ、中途で採用した家臣の長所を見出して大切に扱っている。正信の長所は、他の家臣にはなかった諸国遍歴の体験、そのなかで培った情報分析力と冷静な判断力だろう。

また家康の天下取りを助け、あえて嫌われ役を演じた正信は終生、相模国玉縄城2万2千石のまま、一切の加増を辞した。戦国乱世から泰平の世に移行する過程で、彼には戦場で活躍した武功派を粛清する役目もあった。そのためには何よりも、自らが清廉潔白でなければならないことを正信は知っていた。

〝出戻り社員〟の受け入れはアリか、ナシか――再雇用をする際のポイントは、その人物が「出たあと、どのように成長したか」「戻ったあと、どう立ち居振る舞うか」の見極めだ。(了)

※この記事は2019年1月に【日経ビジネスオンラインSpecial】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

【イラスト】:月岡エイタ

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