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駿河と相模の国境「足柄峠」と金太郎【山と景色と歴史の話】

いにしえより地域の人々を魅了してきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
神奈川県と静岡県の県境「足柄峠」付近一帯に残る“金太郎伝説”を紹介する。


日本の東西を繋ぐ場所

「足柄山」という山はない。
古くから親しまれているこの呼称は、特定の峰を示すものではなく、神奈川県と静岡県の境にあたる「足柄峠」付近一帯の山地を指している。

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奈良時代、「足柄峠」は「足柄坂」といい、この坂より東を「坂東」と呼んだ。かつてここは日本の東西を繋ぐ場所であり、都から「坂東」の任地へ向かう国司やその家族、そして「坂東」から西国へ防人の任に赴く人々が故郷や心を寄せる人に思いを馳せる場所でもあった。

 〽足柄の 御坂に立して 袖振らば 
   家なる妹は さやに見もかも

この歌は足柄の坂に差し掛かった武蔵国の防人が、故郷に残してきた妻に向けて詠んだものだという。

現在、「足柄峠」の神奈川県側には足柄万葉公園があり、『万葉集』所収の7首の歌碑が建てられ、万葉の花木が植えられている。また静岡県側の足柄峠城址公園は富士山のビュースポットとして有名だ。

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坂東の要害「足柄関」

「足柄峠」を通る「足柄道」は東西を繋ぐ街道として発達し、奈良時代に官道として整備された。
平安時代初期、延暦19年(800)から同21年にかけての富士山噴火で一時が通行不能となったものの、翌年には復旧している。この間に南方の箱根山中に開かれたのが「湯坂道」だ。

「足柄峠」付近に「足柄関」が設置されたのは昌泰2年(899)のこと。同時に「東山道」の「碓氷関」も置かれた。上野国の強盗蜂起に対処するためで、翌年には相模国の申請で過所(通行手形)をもっての通行を認めるよう定められている。
一応、両関の設置により騒動はおさまったようだが、天暦10年(956)に駿河国の国司に帯剣を許可していた。「足柄関」が機能せず、駿河に侵入する暴徒を抑制することが目的だったらしい。

【再掲】矢倉岳②

 その後、鎌倉時代初期の公卿・飛鳥井雅経が「足柄の山の関守いにしへは有もやしけん跡だにもなし」と詠んでいるから、承元・建保(1207~1219)の頃には「足柄関」は廃絶していたようだ。

とはいえ平安中期の軍記物『将門記』に、朝廷方の来攻に備え、平将門が「足柄・碓氷の両関を固めればよい」とあったこと、また鎌倉初期の承久の乱のおり、鎌倉方の軍議で「足柄・箱根の関を固めよう」との意見があったことからも、この地が「板東」の要害だったことが知れる。

いつの時代も変わらなかったもの

奈良時代から鎌倉時代初期にかけての「足柄峠」の歴史を駆け足でみてきたが、何か違和感はないだろうか。
そう、“足柄山の金太郎”こと坂田金時が出てこない。彼は平安時代中期の武将・源頼光の四天王の1人といわれている。途中で出くわしそうなものなのに、なぜか、その噂すら聞かなかった。

それもそのはずで、金時の出自が「足柄山」とされるのは江戸時代前期の浄瑠璃が最初だ。その幼名が「金太郎」になるのは江戸中期以降に流行した草双紙や絵本まで待たねばならない。つまり、金太郎こと坂田金時という人物は実在しなかった。

3段-①


ただ、モデルとなった人物は平安中期にいたようだ。藤原道長の日記『御堂関白記』に出てくる下毛野公時で、その享年は18。彼は道長の近衛兵の1人で、弓馬に優れ、相撲使(力士のスカウト)などの役職についていた。

得難い優秀な人材の短命が惜しまれたのだろう。その死から約100年を経て成立した説話集『今昔物語集』に頼光の郎党の1人として「公時」という名で登場した。
これが“金太郎伝説”の始まりで、このエピソードの断片が御伽草子に紡がれ、浄瑠璃、歌舞伎などで脚色されて、今日に伝わる『金太郎』の物語が完成する。

当然、この過程で史実から大きく飛躍した。デフォルメされた架空の人物をも創り上げたが、いつの時代も変わらなかったのは、その物語が人々の心の拠り所だったということだろう。(了)

※この記事は2020年11月に【男の隠れ家デジタル】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

3段-③

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