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“梅は百花の魁”~馥郁とした香りが一足先に春を告げる~【歴史にみる年中行事の過ごし方】

旧暦2月の異称は「如月」のほかにもあった。

「梅見月」もその1つ。

冬の終わりと春の始まりを告げる梅は“春告草”とも呼ばれ、その可憐な花と馥郁とした香りは、古くから庭木や盆栽、立花として親しまれてきた。

2月4日の「立春」を前に、梅の歴史を振り返りたい。


文学のなかの梅

中国長江中流域が原産とされる梅が日本へもたらされた時期は定かではない。

『古事記』や『日本書紀』にその名は見えず、奈良時代の漢詩集『懐風藻』に初めて登場し、現存最古の和歌集『万葉集』には梅を題材にした歌が数多く収められている。

遅くとも奈良時代の貴族たちは庭に梅の木を植え、その花を愛でた。

時は流れ、平安貴族たちも梅の花に関心をもったが、彼らはことのほか梅の香りを好み、和歌や物語に取り入れる。

初代勅撰和歌集『古今和歌集』以降、梅を題材にした歌はその香りを詠んだものが増え、紫式部は『源氏物語』初音の巻で「春の殿の御前、とり分きて、梅の香も御簾の内の匂ひに吹き紛ひて、生ける仏の御国とおぼゆ」と御殿に入り込んできた梅の香りを描写。清少納言は『枕草子』第37段「木の花は」で「濃きも薄きも、紅梅」と素朴な白梅より華美な紅梅を称えていた。

また“学問の神様”として知られる菅原道真が11歳のときに詠んだ漢詩「月夜見梅花」(月の夜に梅花を見る)も梅を題材にしたもので、右大臣だった彼が57歳で大宰府に左遷される前に詠んだ 「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春をわするな」という歌は“飛梅伝説”を生む。

絵画に描かれた梅

鎌倉時代に渡来した禅宗の僧たちのあいだには、禅の教えを短い言葉で説く禅語というものがあった。

そのなかには梅に関するものも多い。

 東風吹き散ず梅梢の雪
一夜挽回する天下の春 (円機活法)

春先、梅の花が咲く頃、その枝に雪が積もるほどの冷え込むことがある。

(やれやれ、いったい、いつになったら春は来るのか・・・)と嘆息した直後、暖かく穏やかな春風が吹いて雪を溶かし、一夜のうちに春が到来した。

ーー日々、努力を続けていると、何らかの機縁で悟りの境地がやってくる。

彼らは自らの悟りの境地を梅の花に喩えた。

その一方で禅僧たちは、墨で梅の花の白さと気品をあらわす「墨梅」も描いている。

「墨梅」は水墨によって描かれた花木図で、これに鳥が取り入れられて花鳥図となり、やがて山水図へと変化していく。

そもそも梅の花の絵は、平安時代の寝殿造の間仕切りなどに使われた屏風に描かれたのが始まり。

現存する『源氏物語絵巻』第44帖「竹河」に梅の若木が見られ、戦国時代を彩った絵師・狩野永徳は襖四面に広がる巨大な梅樹(花)を描き、江戸時代を代表する画家・尾形光琳の『紅白梅図屏風』は日本絵画の最高傑作ともいわれる。

この間、室町時代に建築様式が書院造へと変わり、花や枝などを花瓶に立てて生ける「立花」が成立。初春の座敷を彩る花として梅の花が用いられた。

花の都・江戸

江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康、そして2代・秀忠、3代・家光の3人は“花癖将軍”と呼ばれるほど花好きとして知られた。そのため配下の大名や旗本もそれぞれ屋敷の庭園に好みの花木を取り入れ、町人たちも庭の片隅にさまざまなの花を植えて楽しんだという。

また江戸の人々は、郊外に出向いての梅見(観梅)を好んだ。

江戸周辺には梅の名所が生み出され、菅原道真を祭神として祀る各地の天満社(宮)の境内にも彼にちなんで梅が植えられる。

なかでも「亀戸宰府天満宮」(現・亀戸天神社)付近にあった、呉服商・伊勢屋喜右衛門の別荘「清香庵」は「梅屋敷」と呼ばれ、竜が地を這っているかのような形状の白梅の古木「臥竜梅」は、江戸随一の名木と謳われた。

また、江戸時代後期の本草家・北野鞠塢(佐原鞠塢)が隅田川左岸の隅田堤のほとりに開いた庭園(現・向島百花園)は、亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれ、多くの文人墨客が集って梅見を楽しんだという。

大名屋敷跡が公園に

そして幕末、江戸幕府の崩壊は急激に進み、15代将軍・徳川慶喜の大政奉還、つづく王政復古の大号令により天皇を中心とした新政権が誕生する。

新政府は江戸を「東京」に改称して首都とし、欧米列強に対抗すべく、西欧文明を取り入れて「富国強兵」「殖産興業」をスローガンに近代化政策を推進した。

さまざまな産業や企業が誕生し、急激に日本社会は変貌を遂げたが、当初、新政府は園芸・造園事業にほとんど関心を払わなかったという。

大名や旗本が没落し、それまで武家社会が支えてきた園芸文化が崩壊、管理者を失った武家屋敷は廃墟と化し、その広大な庭園は荒れ放題となった。

亀戸の梅屋敷も安政2年(1855)の安政の大地震で「清香庵」を失い、明治43年(1910)の水害で「臥龍梅」が枯死して廃園になっている。

この間、明治20年代に入り、ようやく園芸・造園業界にも「文明開化」と呼ぶにふさわしい取り組みが始動する。

やがて近現代園芸・都市公園事業が台頭し、かつての大名屋敷跡を国や東京府が取得して公園とし、四季折々の美しい花木が植えられるなど整備された。

現在、都内では「小石川後楽園」(旧・水戸藩江戸上屋敷)や「新宿御苑」( 旧・高遠内藤家下屋敷)、そして菅原道真を祀る「湯島天満宮」(湯島天神)などが梅の名所として知られている。(了)

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国立国会図書館デジタルコレクション

【主な参考文献】
・有岡利幸著『花と樹木と日本人』(八坂書房)
・近藤三雄・平野正裕著『絵図と写真でたどる 明治の園芸と緑化』(誠文堂新光社)
・吉海直人著『古典歳時記』(KADOKAWA)
・湯浅浩史著『植物でしたしむ、日本の年中行事』(朝日新聞出版)

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