東海道随一の景勝地「薩埵峠」と山岡鉄舟【山と景色と歴史の話】
いにしえより地域の人々を魅了してきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
現在の静岡県静岡市清水区由比に位置する「薩埵峠」の歴史を振り返りつつ、その東麓にある「望嶽亭藤屋」に幕末から語り継がれる伝承を紹介する。
万葉集にも詠まれた難所
駿河湾にせりだした急峻な断崖絶壁は、古くから人々の往来を阻んできた。「薩埵山」の古名は「磐城山」(岩木山)といい、『万葉集』にも詠まれている。
この歌にある「許奴美の浜」は薩埵山の東側にあたる西倉沢の地が比定されている。意味は「そのまま磐城山を越えて来てください。磯崎の許奴美の浜に立って、私はあなたを待っています」となり、思いを寄せ合う男女の仲を遮る障害に例えられていた。
当時、この山を越えるには波にさらわれないよう断崖絶壁にへばりついて通るか、干潮を待って崖下の磯を駆け抜けるしかなかった。江戸時代に開かれる「中道」「上道」に対し、この海沿いの危険な道を「下道」と呼ぶ。
合戦の舞台となった薩埵山
薩埵山の山名の由来は、鎌倉時代初期、文治元年(1185)に麓の海中から引き揚げられた地蔵菩薩(薩埵地蔵)を山の上に祀ったことによる。
「薩埵」の地名の初見は南北朝時代の文和元年/正平7年(1352)正月の軍忠状で、室町幕府を2つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い「観応の擾乱」に関連するものだ。
南北朝の動乱を描いた『太平記』も両者の決戦の地として「薩埵山合戦の事」を伝えているが、現在は古文書により尊氏が陣を構えたのは「由比山(浜石岳周辺)」で、主戦場は薩埵山の北約6キロの桜野といわれている。
おそらく『太平記』の作者は尊氏と直義の運命を分ける舞台として、読者がイメージしやすいように知名度のある薩埵山を戦場に設定したのだろう。
また、この地を舞台に繰り広げられた合戦としては、戦国時代の永禄11年(1568)12月から翌年1月にかけて武田信玄の軍勢と今川氏真・北条氏政の軍勢との間で2度おこなわれた「薩埵山の戦い」も知られている。
東海道三大難所の1つ「薩埵峠」
「由比宿」と「興津宿」の間に位置する薩埵山は、明暦元年(1655)の朝鮮通信使来訪のおりに中腹が開削され、峠道が作られた。この中腹を通る「中道」ができたことで、東海道における「薩埵峠」の呼称が定着する。
その後、延宝8年(1680)の高波によって「中道」「下道」ともに崩れてしまい、「中道」を修復する過程で迂回路として「上道」が整備される。これにより波にさらわれる危険はなくなったものの、数キロに渡って険しい山道がつづく難所には変わりなく、薩埵峠は箱根峠、鈴鹿峠とともに「東海道三大難所」に数えられた。
一方、海沿いの危険な「下道」は、幕末の安政東海地震(1854年)で海岸が隆起し、波打際が大幅に後退したことで往来しやすくなる。現在、ここに国道1号線、東名高速道路、東海道本線が交差しながら通っている。
「江戸無血開城」に繋がる伝承
江戸時代、宿場と宿場の中間に設けられた休憩するための宿を「間の宿」といった。由比宿と興津宿のあいだにある西倉沢の茶亭「藤屋」は薩埵峠越えを控えた「間の宿」として知られ、その離れ座敷「望嶽亭」は眺望が良く、多くの文人・墨客が訪れた。
そんな望嶽亭に約150年前から語り継がれる伝承(口伝)がある。
――ときは幕末、戊辰戦争で風雲急を告げる慶応4年(1868)2月、恭順・降伏の意思を表明した徳川慶喜は、様々なルートを使って江戸総攻撃回避の嘆願書を新政府や大総督府に送ったが、彼らはこれをことごとく無視し、官軍(東征軍)を江戸へ向わせた。
そんななか、3月7日夜半、ひとりの男が望嶽亭の戸を叩く。
「官軍に追われている。ぜひともかくまって欲しい」
駿府の大総督府下参謀・西郷隆盛もとへ向かう途中、薩埵峠で官軍の銃撃を受けたため引き返してきた、とも。
主人・松永七郎平が戸を開けると、慶喜より恭順・降伏の意思を伝達する命を受けた山岡鉄舟(鉄太郎)で、事情を察した主人は彼を漁師に変装させ、座敷の地下から海路清水港へ逃がし、旧知の間柄にあった清水次郎長と連携して無事に駿府へ送り届けたという――。
もっとも、これはあくまで伝承であり、この動きを証明する史料はない。ただ通説としていわれる旧幕府軍事取扱・勝海舟が保護していた薩摩藩士・益満休之助が鉄舟を江戸から駿府まで送り届けたという話も、3月6日に2人が江戸を出立したあと、7日と8日の記録はないという。
「江戸無血開城」といえば3月13日と14日の海舟と西郷の江戸での会見が知られるが、その中身は3月9日に駿府でおこなわれた鉄舟と西郷の談判でほとんど決まっていたといわれる。このときの使者が鉄舟だったからこそ西郷の心を動かし、江戸の町を戦火から守ることができた、とも。
幕末の奇跡といわれる「江戸無血開城」の立役者の窮地を救ったという望嶽亭の伝承は空白の2日間を埋めるうえでも興味深く、見過ごせない。(了)
※この記事は2021年2月に【男の隠れ家デジタル】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。
【錦絵】
「東海道五拾三次 由井・薩埵嶺」(国立国会図書館デジタルコレクション)
【肖像画】
「山岡鉄舟」「清水次郎長」(いずれも国立国会図書館デジタルコレクション)
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