54字の物語 番外編1
*54字には収まらなかったので。
「河馬(カバ)」
疲れて寝てしまった子供を抱っこしながら、もうおしまいだと思ってじっと河馬を見ていた。
もうおしまいだ。
おれたち家族はもう――。
この子が生まれてから何もかもおかしくなった。子供というものが天使のように笑いながら親の首を絞めてくるものだなんて知らなかった。
低い鉄柵のすぐ向こうで、河馬があくびをするみたいに口を大きく開けた。ちょっと身を乗り出せば手が届きそうな距離だ。
そのとき、どこかから声が聞こえてきた。おれは耳を澄ませて声を聞き取ろうとする。
――しかない。やるしかない。
――そうすればこの地獄から解放される。
何を言っているのか理解しようとしながら、おれは大きく開いた桃色の穴ぼこをじっと見つめた。地獄。どうしてもそこから目が離せなかった。
ふいに、そういうことかと気がついた。気づくと同時に、やるしかないのだと悟った。
おれは声の言うことに従った。
手ぶらで檻から離れると、向こうから妻が歩いてきた。また男と連絡を取っていたのだ。
「あの子は?」
おれが黙っていると、妻は怪訝そうに見返してきた。すぐに何かに気がついたみたいに、妻が悲鳴を飲み込んだ。
おれは妻の視線を追うようにして、ゆっくり後ろを振り返った。
河馬は池からあがり、檻の中央の日射しの中に悠然と座り込んでいた。その口の端から、あの子が着ていた水色のシャツがぶら下がっていた。
いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。