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発達障害者(ASD)の障害者雇用4/創作界隈も社会だぜ


創作の道に進んだとはいえ、そちらでの結果も中途半端でした。

私にしても、生きていくにはある程度のお金は必要という話は小耳に挟んだことがあったので、ひとまずは創作でお金をもらえるようになることを目指しました。

私が最初に志したのは映画の脚本家という仕事です。

場所は東京、高円寺。親と縁を切って家を出て、地元で貯めたなけなしのバイト代がなくなったら終わりという背水の陣で臨みました。

当初は自分で予想していたよりも早く、仕事として書けるようになり、作品にきちんと自分の名前がクレジットされるなど、ある程度の成果を出すことができました。

しかし、まもなく壁にぶつかることになります。まもなくというより、最初から常に支障が出ていたと言った方が正しいかもしれません。

壁というのは、創作に関する力量ということ以上に、仕事相手に電話をかけなければいけないとか、打ち合わせで何かしゃべらなければいけないとか、自作について説明しなければならないとか、飲み会に行かなければいけないとか、そういったことです。

私にとっては、いい作品が書けるかどうかということよりも、そうしたいわゆるソーシャルスキルに関わることの方がよっぽど大きな障壁になるわけです(映画業界のブラック体質による問題も大いに壁ではありましたが、ここでは置いておきます)。

私はそうしたことを常に避けよう避けようとしていましたが、当然ながら、仕事としてやるとそうも言っていられない場面も多々出てきます。

それを、イヤだ無理だできないなどと思いながら、他にどうしようもないのでやる。しかし、無理してやったところでうまくできるはずもなく、場合によっては失敗してさらに大きなダメージを受けることになります。

電話を一本かければ済む話なのに、それを避けたいがために仕事(収入)を棒に振ってしまうようなこともありました。デビュー作の打ち上げをバックレたのも今となっては懐かしい思い出です。

一般に、自営業者には営業力や交渉力が必要とされてますが、その程度のこともまともにこなせないとなると、これはそうした言葉を使う以前の問題になるでしょう。

(病気っちゃ病気だからね。あてはめるとすれば社交不安障害でよいかと思いますが。それとパニック障害の併発ですね、私の場合。あと広場恐怖も。閉じ込められる場所や自分の自由意思で出たり入ったりできない場所に強い抵抗感があるというのはこれになるかと。それなのに我慢しながら電車に乗り、我慢しながら映画館に通っていたわけですね。バカなのという感じですが。時系列としてはパニック障害が一番最初ということになるのかな。違うかも。切り分けて語れるものでもない気もします。いずれにしろ、それらも発達障害からの二次障害ということになると思います)

創作というのは一人でできるからいいのに(私の場合、それこそが創作の第一義的な価値なのです)、仕事になると結局のところ他者が絡むことになり、そうすると些細なあれこれがストレスとなります。いや、本人にとってはちっとも些細じゃないわけですが、そうしたことが積もり積もって、やがて心身に支障をきたし、遠からずうつと共に去りぬ、という結果になるわけです。

こう思うと向いてない仕事をしていたようにも思えますが、ちょっと待ってほしいのは、仮にも激しい競争を勝ち抜いてプロと呼ばれるようなものになれるのなら、向いてないなんてことが言えるのかということです。

私の場合、向いてなかったのは、何らかの社会・組織・集団に関わること、ひいては人と関わることそれ自体だったと言えるような気がします。たまたま最初に関わったのが映画でしたが、他のどんな業界に行っていたとしても、社交性やらソーシャルスキルに関わることが原因でどん詰まりになっていたことでしょう(というか、その後実際に別のところでもそうしたことが原因でつまずき続けることになるわけですが。根本を解決してないから)。

それにしても、飲み会に人並みに、そこまで苦にならずに参加できるというだけでも、もう少し楽に仕事(人付き合い)ができたのではないかと思うのですが。飲み会なんて拷問みたいなもんですからね。なぜ、皆あんなに事あるごとに飲みたがるのか、私にはいまだに理解できません。

ちなみに、映画の仕事を辞めた直接の理由は映画界のブラック体質の方になりますが、まぁ今はいいでしょう。

イヤな世の中です。

発達障害者については、「いくら頑張ってもできないことがある」とか「(できることとできないことの間に)できるけど、ものすごく疲れることがある」とかよく言われますが、その言い方って伝わるのかなとちょっと疑問に思いながらも、内容自体はその通りだなと思います。

だからこそというべきか、それでもどうにか適応しようと思ったら、障害者雇用という形が非常に助かることになります。というか、私に関する限り、それがなければ、まともな形で社会に出るということは選択肢にも上がってこなかった、というのが本当のところです。

そして、それが選択肢に上がってきたのは、実に四十歳を過ぎてからということになるわけです。






いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。