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ラクロスである必要はないけれど、ラクロスでなくてはならない

恥ずかしながら、大学に入学するまではプロ野球選手、ゆくゆくはメジャーリーガーになりたいと思っていました。彼らの自信に満ち溢れた所作、人間業とは思えぬプレーが森松少年にはたまらなくカッコよかった。ニューヨークで野球を始めたこともあり、憧れの選手はヤンキースのDerek Jeter。小学一年生で野球をはじめて以来、彼のような人物になりたいと思っていました。

元来楽観的なこともあり、高校生になってからもまだメジャーリーガーになるチャンスはあると思っていました。高校野球では思うような結果が出ていなかったけれど、相当厳しい練習を毎日している。急に体が大きくなったり、急に上手くなることなんてザラにあるのだから、まだまだ可能性はある。そう信じて疑いませんでした。

ただ同時に簡単な道のりではないことも分かってはいました。高校野球で名を上げるのは個人の実力的にもチームの実績的にもかなり厳しい。ただ自分には逆転のチャンスをもたらしてくれる武器がありました。そう、学力です。

東大野球部のエースとして活躍する。これしか道はない、と思いました。六大学野球は注目度が高く、東京大学が勝利すると新聞にも大々的に取り上げられるほど。ここに逆転のチャンスがある、と考えました。

これはもう両親と環境に感謝という他ないのですが、幼少期から文武両道をモットーにそれなりに勉強はしていました。そこまで苦労もせず、ゲーム感覚で楽しんでやっていた記憶があります。東京大学に入学することはそれほどハードルが高くない、と当時の自分は思っていました。

結果的に一年の浪人を経ても不合格。壮大な計画の初手で躓いてしまいました。そんな状況でも歯を食いしばって頑張り続けるのが本来あるべき「美談」なのかもしれませんが、東大以外で野球を続ける気はありませんでした。4年間出場機会がないかもしれない、むしろその可能性が高いような環境で頑張る勇気がなかった。浪人の一年はそれなりに辛かった為、もう浪人もしたくない。この壮大な計画のバックアッププランとして考えていたのは、留学をして「路線を変える」ことでした。

そんな時に出会ったのがラクロスでした。日本一を本気で目指せること、皆未経験でスタートラインが一緒であることに強く惹かれました。そして本気になっていくにつれて、ラクロス界の仲間意識・国際色の強さ、ラクロスという競技の激しさ・スピード感、ラクロス界の人の魅力にどんどん惹かれていきました。

今振り返ればラクロスである必要は全くありませんでした。自分が輝けるフィールドでかっこいいものであれば何でもよかった。入学当初はビジネス系サークルや国際問題を解決するような団体を多く回っていましたし、むしろラクロスなんて中途半端な奴がやるスポーツだとさえ思っていました。

でも今では、ラクロスでなくてはならない、と思っています。イロコイ族のようにラクロスという競技自体に何かパーソナルな繋がりを持っている訳ではないし、競技それ自体への拘りはあまりありません。ただ様々な要素が組み合わさって、自分にとって今没頭できるのがラクロスであり、今の自分にとってはラクロスでなくてはならない、という確信があります。

こういう言い方をすると、どこか自己中心的で独善的な印象を受けるかもしれません。そういう要素は自分の中に多分にあるでしょうし、この挑戦自体がそんな要素を含んでいるでしょう。「自分の為に」なんていうことはあまり言わない方が良いのかもしれません。ただ崇高なビジョンばかりを語り、それを所与のもののように語る人を見ると少し違和感を覚えます。スタート地点は「自分」だったはずなのにな、と思ってしまうのです。

究極、ラクロスが広まらなくてはならない理由も、スポーツ界が良くならなければならない理由も、社会がより良くならなければならない理由も、ないのでしょう。でも自分が素敵だと思うから、みんなに知って欲しいと思うから、自分が何かいい影響を世の中に与えて死にたいと思うから、崇高なビジョンに翻訳して伝えて、仲間を募っていくのだと思うのです。

だからスタートは自分が「やりたいからやる」でいいのだと思いますし、困った時はここに立ち返ればいいのだと思います。

「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」

というのはこういうことだとも「解釈」できるのではないでしょうか。意味づけをするのは自分でしかないと思うのです。

社会人になって「真っ当に」社会的価値(経済的価値)を生み出していない現状に引け目を感じることは勿論あります。ただそうは言っても、自分の欲望をスタート地点に置くことは極めて健康的なことだと思いますし、崇高に見えることでさえ誰しも結局自分の為にやっているのだとも思います。

自分を育ててくれた方々、影響を与えてくれた方々が自分という人間を作り上げた事は間違いありません。そういう意味でもそうやって作り上げられた「自分」を尊重したいし、そうやって生まれてきた自分の夢・目標を達成したい、と思うのです。

こうして自分の為にやっている事が徐々に周りにも良い影響を与え、社会的価値を持っていくのではないでしょうか。


日本初のプロラクロス選手であり、今や世界のラクロス界を牽引する立場にある山田幸代さんに出国前、「かっこよく練習して来い」と言って頂きました。言われた時はあまり深く考えていませんでしたが、最近自分の中でしっくり来る「解釈」をすることができました。

よくよく考えるとラクロス選手としてもビジネスの世界においても自分の替えなんか幾らでもきくし、ラクロス留学をする人も、プロラクロス選手になる日本人も、日本代表選手も自分である必要は全くない。誰かに求められて始めた挑戦でもない。崇高なビジョンを語ろうにもどうもしっくり来るものが思い浮かばないのです。

最近の1日のメインイベントはシュート練習と壁当てです。地道な基礎練習でサボろうと思えばいくらでもサボることができます。「何でこんな頑張るんだっけ?」なんていうのはしょっちゅう抱く疑問で、弱い自分がすぐに顔を出します。そして「もうちょっと頑張れたな」とも毎日思います。挑戦しようと思っていたカナダのリーグはつい先日、ほぼほぼ中止が確定しました。さっさと帰国して働いた方がいいのかもしれません。それでも、もう少し粘ってみたいとも思うのです。

「かっこよく練習する」。日々の地道な練習で少しずつ上手くなっていく。そしてその様子を見てくれている人にとって一つのモデル、憧れられる存在になること。

傲慢に聞こえるかもしれませんが、やってみたいと思います。「やりたいからやる」をスタート地点にして。

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