見出し画像

第7話 僕は生きているのか、死んでいるのか

 さぁ今週もやってまいりました、尾っぽがないと書きまして「尾無(おなし)」でございます。

 このnoteを初め、久々にご連絡いただく方や、ちょっと話題提供にお話いただけませんか?みたいなお話もくださり、本当にありがたい日々を過ごしております。特に「スキ」(Facebookでいう所の「イイね👍」)が30近くいただけており、結構、保健・医療・福祉関連では多い方。「スキ」が多いとまた、多くの方の目に触れ、読んでいただけるので、ぜひ読んでいただいた方はポチッとお願いします🙇‼️

 避難所では、余震で恐怖を感じたり、電気や水道といったライフラインの復旧を全員で喜んだり、感染症が起こり始めて不安を覚えたり…。前回の5000字を超えるnotoでも語り尽くせいない出来事が起きましたが、そこは余白として残しておき、気になる方は直接お声がけください!!

 さて、発災直後から、イレギュラーでちょっと異常な活動をしまくった尾無少年(自業自得の部分あり)。今回はその反動でついに心と体のバランスを崩してしまいます。
 これまでは、災害時にはどんなことが起こり、どんな活動をすべきか、という内容を中心にお伝えして来ましたが、第7話は大変な状況で体調を崩してしまった人がどうななって立ち直っていくのか、全く参考にならない復活劇をご覧ください!!笑

●尾無ついに壊れる

 日中は避難所運営に奔走し、夜は灯油・介護・オンコール…こんな生活を十数日間続けていましたが、被災地の職員も段々に交代で休みの日を作ることに。私は一番の若手でしたので、一番最初に休むことになりました。

 衛星電話で安否を伝えたり、合間に自分のアパートを確認したりは出来ていましたが(自分の家は見事に全壊。ほぼ何も残らないと涙も出ませんでした。)、ようやく発災後、自分のために時間が使えることに。意気揚々と3時間以上かけて彼女(現在の妻)の家へ。

 この時、自分の心と体に異変が。

 内陸の「山田」クリニックの看板を見るだけで動悸がし、ずっと「どこなら津波から逃げられるか(内陸だから海は全く近くない)」という視点で景色を見ていました。夜になれば勝手に涙が溢れだしました。実は避難所でも夢は悪夢ばかりで、中途覚醒や早朝覚醒も起きていました。

「やばいな…」

 と思っているうちに休みは終わり、朝早起きをして山田町に戻りました。

 すると、山田に近づけば近づくほど胸の鼓動が激しくなり、106号から三陸道へ入り、海を見た途端に具合が悪くなりました。運転もままならない感じでしたが、なんとか耐えながら役所へ出勤。しかし、地面が揺れているような感覚になり、立っているのがやっと。尊敬する保健師に連れられ、支援に入っていた精神科医に診察をしてもらい、即ドクターストップ。




 …健康優良児の尾無少年は初めて、自分のキャパを超えて体調を崩すという経験をしました。




急性ストレス障害の症状。PTSDとよく言いがちですが、ちゃんと分けて考えなきゃだけですね。


 今思えば「そりゃそうなるわ」とも思えるのですが、当時の私にとって大きな大きな挫折体験です。悔しくて、不甲斐なくて、恥ずかしくて、申し訳なくて、やるせない気持ちでいっぱい。めちゃくちゃ泣きました。東日本大震災に負けた、弱くて何もできない人だということを突きつけられた瞬間でした。

 悪夢を見ずに眠り、自分の力で健康を取り戻せるように、と、眠剤が処方されました。でもね、いざ飲むとなったら手が震えました。「これを飲んだら俺も病人の仲間入りだ。負けを認めることになるんだ。」←大袈裟。めっちゃ偏見。看護職なのに・・・。でも、健康に自信があった成人男性が薬飲む時って大体こうなんだと思います。

 これを読まれてる皆さんもこういった経験はありますか?
 コロナ禍での対応、日々の業務でも大きなプロジェクト(企画・計画)を任されたり等、自分自身のキャパを超えることをしなければいけない時ってありますよね?

 だから、災害時も通常時でも、組織では「ブレーキをかけられる人」ってやっぱり大事だと思います(後々精神保健担当をするのですが、消防署の職員や警察官、自衛隊の皆さんなど、屈強な男たちも涙が出たり、胃痛、血尿等々いろんな症状がありました)。

 これを読まれている皆さんは、是非周囲を見渡し、「頑張っている」段階ではまだいいのですが「無理をしている」人がいた場合には「大丈夫?」と声をかけ、休むことを促してほしいと思います。災害時はこれ鉄則。「長期戦になるから」を合言葉に休まないといけない。休むことも仕事です。

 尾無少年は、ここから7日間の休みを取ることとなったのです…


●生きているか死んでいるかの確認作業

 ドクターストップで業務から切り離された尾無。1週間のお休みに入ることになりました。ドクターストップを受けた時はもう申し訳なくて、不甲斐なくて、何もできない人だということを突きつけられた最悪の気持ちでした。被災地に居られない心境でしたし、家も被災していましたのでまた内陸へ。

 妻の実家も全壊でしたので内陸にアパートを借り、家族で避難していましたので、そこに行って状況を話し、少し一緒に生活をさせていただくことにしました。

 妻は当時看護学生だったというのもあるかもしれませんが、心配はしてくれるものの、いい意味であまり態度を変えることなく、いつも通りに接してくれました。まぁこれも振り返ると、自分の実家が被災して親も落ち着かず、私は隣で明日のジョーの如く廃人の中、よく大学3年生、4年生をクリアしたなぁと本当に尊敬してます(看護学生の3・4年は実習、卒論、就活に大忙し。普通でも大変な学生生活ですが、高いレベルでやりきった妻は本当に凄い!!)。

 私がこの休み期間にしたのは、片っ端から友人に会う、電話する、ということ。

 「は?なんでそんなこと?』と思われると思いますが、自分が生きていることを確認したかったんです。

 「は?よくわからん!」という声も聞こえてきますが(笑)

 うまく説明できないのですが、現実味がないことばかりなんです。自分の持ち物は全部失うし、住む場所なくなるし、人が目の前で亡くなったり、大怪我した人が目の前に運ばれてくるし、避難所に行けば映画のワンシーンじゃなくて映画の中にいるような状況で、自分がやらないと誰かが困るとかじゃなく、生活が立ち行かなくなるみたいな、そんな状況なんです。頭の中は大混乱だったんだと思います。それに加えて体調も崩して、「これ、俺生きてんの?」みたいな、「俺って必要とされてる人間なんだっけ?」とか。

 そこで、友達に会って話をしまくる。会って、「俺生きてるよね?」みたいな。
 で、みんな控えめに言って温かかった!!予定合わせて会ってくれて、話聞いて、「いや、そんな経験したら普通で居られるの無理だよ!」とか「マジですげぇよ!」とか言ってくれて、みんなに会うことで、自分が生きていることを確認し、自分がしなければいけないことを整理した時間だったように思います。

 この時に何が欲しい?ってみんな言ってくれて、友人達でお金を集めて「尾無義援金」をくれたんです(この他にも私服をくれたり、肌着やパンツや色々くれました。本当に支えてもらった!!!!!)。

 そのお金で何か買うのは勿体無いと考え(いずれ無くなっちゃうし)、この一年後、健康運動指導士の資格をとり、被災者の健康づくりに尽力しました。なんで健康運動指導士?!は、またいつか?!お話しします。

 ここで、「尾無少年は皆んなからの力をもらって元気を取り戻し、被災地で大車輪の活躍!」となればこの物語は綺麗なんですが、現実そうはいかないのです…

●ポンコツ男性保健師、戦闘能力0

 妻と友人達との1週間はあっという間に終わりました。
 確かに眠剤で眠れるようになりましたし、悪夢も見ない。体力は戻ったように思いますが、本当に自分は働けるのか不安でした。

 実は、というほどでもないのですが、避難所でおにぎりをいただいていたんですけど、内陸へ行った後、白米が炊き上がった匂いを嗅ぐと、避難所の匂いと情景が一緒に押し寄せてくるんです。で、その後は口の中が土のあじ?粘土っぽい味?がして気持ち悪くなるんです。この後、半年以上は白米を食べれませんでした。←日本男児として致命的

 こんな状況の中、また帰路につき、106号から三陸道、海が見えるところへ。





 冷や汗が止まりません。「ヤベェよこれ…」





 それでも役所につき、デスクに座りました。みなさん心配してくれ、温かい言葉をかけてくださいます。でも、この時も体は地震で揺れているような感覚があり、動悸もして気持ちも悪かったです。それでも私はデスクにしがみつきました。


 「逃げたら、もう二度山田町に戻ってこれない」


 そう思ったからです。恥ずかしても、何もできなくてもここにいる。

・ 
 ぶっちゃけ、もう内陸で看護師をしようとも思いましたし、他市町村で保健師になろうかな、とかも考えました。でも、一生後悔することも感覚的に分かっていました。


 また、自分が今している苦しい思いは、家族を失ったり、故郷を失ったり、仕事を失って絶望をしている人からしたら大したことではない。むしろ、自分もここから逃げずに苦しむことが、被災者の思いに「寄り添うこと」に繋がるんではないか、という超絶ドMな発想(基本Sだと思うのですが←どうでもいい情報)から、戦闘能力0でもここにいると決めました。

 精神科医には体調は良くなってきていると嘘をつき(こんなことしたらダメですよ)、仕事に戻りました(死んだ魚の目をしていたのでバレていたと思いますが笑)。

 尊敬する保健師には本当に迷惑をかけました。ただでさえ大変なのに、私に気をつかわせて。ただ、やっぱり流石なのは、ここで、元々いた避難所の担当を変えずに行かせてくれたこと、仕事もいくつかできそうなことを任せてくれたこと(これが次回につながります)。それによって、大変ではありましたが、徐々に戦闘能力は0から1、2、3と回復していったように思います(通常の保健師の戦闘能力は1000)。

 避難所に行った時には浦島太郎状態でしたが、すで県外保健師チームと災害支援ナースがうまく引き継ぎをしてくださり、避難所の健康面のサポートがされていました。

 4月に入り暖かくなってきた避難所では、配給される食事をおじいちゃんおばあちゃんが大事に保管していい感じに腐っていたり、御手洗いが激烈汚かったり、土足で避難所が解放されたので、土埃がすごかったりこういったことを予防的観点から支援チームの保健師さん方が中心となり対応してくださっていました(トイレについては「トイレ研究所」の方がnote書いてますので是非勉強されてください!!)。

 また、この後は夏が来て、熱中症対策、長きに渡り狭いプライベート空間での生活によるエコノミークラス症候群や生活不活発病の予防等も必要な支援になります(阪神淡路大震災、新潟の2つの大きな災害からの教訓として論文や雑誌に掲載されている重要な情報です!!)。

 私たち看護職はその時その時の対応も必要となりますが、先を見越して予防的に関わっていくことの重要性も感じました。



 戦闘能力0保健師でしたが、災害ナースや保健師チームの活動に支えられながら、なんとか「被災地保健師」にしがみつき、自分の役割を模索し始め、次回より、まさかまさかの仕事をし始めるのです…

 

次回、第8話「こころってどうやってケアするの?」

・精神崩壊保健師、精神保健担当になる
・「失う」ということ
・「ボク」なんかにできること、「ボク」だからできること?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?