僕には「安心」がこれほどまでに意味をもつものだったなんて
八木仁平さんの、こちらの本を読んでいます。
複業教員は、かなり気に入っているものの、あくまで過渡期の選択。「その後」は常に気になっています。
なのでこうした本からヒントをもらって、何をしたいかを見つけて、少しずつ日々に取り入れていきたい…そんなことが来年度の「作戦」。
ですが、僕は本に付いているワークとかを結構さっと流してしまいがち。その場でちょこっと考えるのですが、どんどん次の本に進んでいくことが多いのです。
でも今回は、なんだかちゃんとやるべきだなと思いまして。
@yagijimpei さんの自己理解の本を読んで、自分には珍しくちゃんと時間を取ってワークに取り組んでいる。なんだか、今回はきちんとやらないと次に進めない気がしたのです。そうしたら驚いた。あまり好きになれなかった「安心」が自分にはめちゃくちゃ大事なものみたいだ。#せかやり pic.twitter.com/WxoeQgcxxN
— とーる@複業教員 (@toru0303) January 2, 2021
時間をとって、ちゃんと手を動かして、そうしながらいくつかのワークに答えていたら、「安心」という言葉がすごく重みを伴って浮かび上がってきたのでした。
ああ、どうして先生が苦しかったかも、改めて分かってきたなあと。
浮かび上がってきた「安心」の言葉
この本では、「尊敬する人は?」など、いくつかの質問に答えていって頻繁に出てくる言葉を探すワークがあります。
印象的だったのは「今の社会には何が足りないか?」と「自分の子どもを育てたり、誰かに助言したりするとき、一番伝えたい行動、伝えたくない行動は?」の項目。
時間を決めて、思い浮かぶことをひたすら書き出していくと、「ああ、まただなあ」と感じる言葉の数々。
それをまとめると出てくる僕の価値観。その一つが「安心」だったのです。
「今の社会には何が足りないか?」に対して僕が書いたこと
待つこと、つまり優しさ。
相手の言いたいことは、本当はその言葉通りじゃないかもしれない。状況に押されて選ばされているのかもしれない。まだ言葉になり切っていないのかもしれない。
だって自分はそうだから。心がまとまり切ることもないし、心の中が100%言葉になるなんてない。
でもそんな「仮」で出した言葉をその人の言葉として、どんどん進んでしまう。ますます追い立てられる。何か言わないと…と、そこに時間や期限が発生してしまう。
でもそれは、どんどん可能性が狭められること、窮屈になること。
でも「本当」の部分で関われていないとしたら、とても悲しくてもったいないのではないか?
「本当」の部分ってなかなか出ないのだから、待つこと、あなたのペースを大切にすること、可能性を狭めないこと。
それが必要なんじゃないか、ってこと。
「自分の子どもを育てたり、誰かに助言したりするとき、一番伝えたい行動、伝えたくない行動は?」に対して僕が書いたこと
上のようなことを思っている自分。
伝えたいこと、言いたい言葉を挙げると
・大丈夫だよ
・とりあえず言ってみて
・途中で変えたって、変わったってOKだよ
・そういうものだよ、そういうことだってあるよ
・納得、スッキリできると好いよね、やってみたいよね、エネルギー湧くよね
伝えたくないこと、言いたくない言葉を挙げると
・もうこれでいいよね?
・時間がもったいないよ、無駄だよ
・早くしてよ
・先にやっちゃうよ
・言われた通りにやって
キーワードを考えれば、安心、本音、あなたのペース、納得、エネルギー。
同時に、担任をしていた時は、苦しさを覚えながら、やっぱり言っていたことを思い出したのです、言いたくない言葉を。
担任が苦しいと感じていたのは、僕の特性上、とても当たり前のことだったのだと再確認した瞬間でもありました。
(別の自己理解でもよく腑に落ちたので、またいずれ書きたいと思います)
僕の言う「安心」
改めて僕は、本当の部分はそう簡単に言葉にならないのだと思っています。「ぐちゃぐちゃ」に本当があるとすら思っている。
けれど「本当」に触れられないとしたら、やっぱり悲しい。
じゃあ僕には何ができるのか。言葉をちゃんと聴くこと。言葉になっていないものもあるだろうと知ること。それも想像して感じること。決め付けて可能性を削らないこと。言葉が出るのを待つこと。自分はちゃんとあなたを分かれているかと問うこと…
あの時に言った言葉を思い出して「やっぱりああ言えばよかった」と思うこともある。あの時言った言葉も気持ちも本当、やっぱりこうだったという気持ちも本当。ウソをつきたくなる、つかざるを得なくなる状況だってその人には真実だろうということ。
AとBとで迷っているのならその迷いも言ってもらえる自分でありたいこと、好い言葉が見つからないのなら一緒にさがすから近い言葉をいくつでも言ってほしいこと、色々なことを気にかけているのならその「色々」も言っていいんだよと伝えたいこと。
それが出来ると、きっと「今」を出来るだけそのまま受け止められるんじゃないかということ。
その時に話せること、出せる気持ち、さぐれる自分自身、さがせる真実があって、人は大事なものを見つけていけるんじゃないかということ。それこそ夜カフェのように。
そういえば、「カフェのような人でありたい」と思ったこともありました。
これが僕の「安心」の全体。
今まで「安心」という言葉が好きじゃなかった理由も、なんだか分かってきました。
「安心」という言葉が好きじゃなかった、それはすごく大事に思うからなのかも
ひょっとしたら、「安心」という言葉にこれだけこだわりをもっている人は少ないのかもしれない。
(僕は、僕の感覚が当たり前なので分からないのですが)
ここまでこだわりがあるからこそ、最近よく言われる「安心」「安全」が軽いように感じていたのかもしれない。
ある人が「とーるの時間の使い方はコンサルとは真逆だよね」と言ってくれました。
そうなのかもしれません。僕はどうやら、待つこと、長い時間をかけることに重きを置いているから。
ということは、僕の「安心」論には、実は一定の価値もあるのかもしれない。
この方向で発信をしてみるのも好いのかもなあ…なんて、そんなことも考えています。
ということで、好い本に出逢えました。(この4日で2回も読んでしまいました。)
八木さん、有難うございます。引き続きワークを続けていきます。
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