見出し画像

僕の問題意識:複雑で「分からない」だらけの中で、それでも納得できる確かなものを。

望むのは「人間らしく暮らしていたい」それだけだ。「僕は今、人間らしく日々を生きている。幸せだ。」と、そう言えること。ただそれだけを考えている。

仕事のこと、お金のこと、おいしい物、睡眠時間、空や風、眺めたり考えたり歩いたり。僕がしているのは、暮らしだ。じゃあ働くこと、生活すること、生きることって、別の言葉にするほど分けられるものだろうか。

ファーストキャリアは大事。能力開発の意味でも、問題意識をつくるという意味でも、きっと自分の基盤になる。初めに教員をしたからこそ僕の中に生まれた、消化できない違和感、簡単に答えを出せないこと、考えざるをえないこと。それは今も息づいていて、ふとした時に顔を出す。

複業教員を選んで、この暮らし方を2年した。何が起きてどうなるか、大体わかった。今の生活も悪くないけどそろそろgreat resetのタイミング。来年、ガラリと変えよう。

来年はここにいないと思うと、ものすごい勢いで片付けが進む。これまでもかなり減らしてきたのに。あれは持って行けない。あれは片付けよう。これのお陰で僕はもうこれを必要としなくなった。

僕は来年ここにいないから、新しい場所で考えたいことは何だろう。ミッションとかビジョンとかよりも、「問い」「違和感」「考えたいこと」「問題意識」。この呼び名の方が僕にはしっくりくる。自分が思わず考えてしまうこと、結局ここに戻ってくるのね、ってこと。


人間らしい暮らしって何だろうか。そんなに難しいことなんだろうか。

オンラインの仕事が当たり前になった。でもその過ごし方は不健全な気もしている。部屋にこもって仕事をし、パソコンにカタカタ向かうだけ。部屋の中でずっとクーラーを効かせて身体を冷やして、画面を観続けている。太陽を感じず、冷房にさらした身体がふと気付けば冷えて硬まってカチカチになる。そこに気持ちいい空があるのに、いったい何をしているのか。「こんなに美しく変わりゆく空を見られない働き方はもうやめよう」が退職の一押しだったのに、また繰り返している。冷房をつけたままふと外に出てから戻ると、この部屋にこもる涼しさは柔らかくないことに気づく。
(と書いていたのに突然の秋。もう肌寒くなってしまった。)

眠いなら、一番するべきは眠ることなのに。コーヒーを飲み、身体の欲求に我慢を強いて、なんとか目を覚ましてデスクに向かう。その先にあるものは大事と言えば大事だけれど、本当に、そうまでするほど、大事なものだろうか。その大事さを、納得できているだろうか。もちろん大事だ、目指すものは素晴らしい。でも今、目の前のパソコンで進めるその仕事が、目指す素晴らしいものにどう繋がるのか。考えれば説明はできる。でもほしいのは実感で、その実感がない。そして実感のないままに、また次の仕事がやってくる。

本末転倒感。生きることが、ToDoリストをこなすことになっていないか。アラームで起きて、決められたことをこなす。眠い頭を動かすためのコーヒーやエナジードリンク。時短や効率化で時間を生む。そして生まれたその隙間にまた仕事が入る。時間を大切にしているようで大切にしていない。時間こそが人生なのに、時短術で生まれた時間で人生を生きていない。自分とは心だとも言えて、忙しいは心を亡くすと言える。時短で生まれた時間、そこにさらに仕事が入って忙しくなる。心を亡くすから自分も減っていく。だから自分が内側から死んでいく。

「仕事」って何だろう。その言葉をつかうとき、単に「業務」の言い替えだったり、もっと大きなもの、大事なものを指すこともある。「お金を得る」だけを意味すること多い。そもそも「仕事する」と「働く」って同じなのか。お金が僕らの生命の前提になっているのはどうしてなのか。転職の時に気にする「自分の市場価値」というその言い方が、既に市場経済を前提にしている。

「生活する」「暮らす」「生きる」もそうだ。似た言葉だからといっしょくたに使っている。

人間らしい暮らしって何だろうか。そんなに難しいことなんだろうか。ただそれをしたいだけなのに。

これが、新しい場所で考えていたいこと。僕が考えずにいられないこと。


「コミュニケーション」も同じだ。

コミュニケーション=人を動かすことだとしたら、コミュニケーションさえもビジネスの歯車に組み込まれている。でも、僕らにとってコミュニケーション自体が大事なんじゃないか。だって相手と繋がれた喜びって、純粋にあるじゃないか。

教育だってワークショップだって、名前は違っても、結局は相手を動かすこと。これをこうすると人はこう動く、理解しやすくなる、アイディアが出る、気付きを得る。計算して相手を動かす。そういうことじゃないですか。うまくいった事例を一般化して再生産する。目の前のこの一回が、数あるうちのただの一回になる。ゴールのための手段になる。「あの嬉しい時間を」よりも「相手を思い通りに動かす」ことが上になる。

それが本当に大事なのか僕にはどうにも分からない。教育ってなんだ。よく見えなくなる。人間にとって大事な事ってなんだ。目の前の相手をある方向に動かして、事前に決めた成果を達成することが、ビジネスであり教育なのか。そうだとすると、相手は誰でもよいのではないか。昨日も明日も来年も同じことをする。相手は目標達成のためのパーツにしかならないのではないか。それは相手を人間扱いしていないことで、コミュニケーションを大切にしていないことで、ひいては自分も大切にしていないことではないのか。果たしてそれは「教育的」だろうか。でもそれをするのが仕事なのか。目の前のその人がお金にしか見えない瞬間があるとしたら、それは苦しいだろうと思う。大切な何かが削られていく。僕の言葉ではそれは、自分が内側から死んでいく感覚。

「もっと違う使い方をしてくれれば、もっと違うことができるのに」と思っていた。同じことを子どもに、相手に、しているんじゃないか。言われたからやるけどさ、これは本当に大事なんですかねって。

それが”教育”なら僕はもうそれはしたくない。「もう我慢して働かなくていいんだよ」と自分に言うとほっとする時があるけれど、僕にとってそれは「もう”教育”をしなくていいんだ」なんだな、と思うことがある。僕には”教育”は大事すぎるのかもしれない。教育という言葉を使うのなら、僕はまず「自己教育」にアンテナがずっと向いているんだ。


それでも、仕方がないからやるのだろうか。それが仕事であって、仕事をしないとお金がなくて、暮らしていけないから。つまりお金。お金がないと生きていけないことにされている。
(そういえば僕は「仕事」と「ビジネス」を使い分けている。「ビジネス」にはお金の意味合いが強く入る。)

お金がないと生きていけない。毎日お金をつかっている。そのお金ってなんだ?自分でつくれないものを譲ってもらうための交換手段。つまり、毎日お金をつかうような今の僕らの暮らしは、自分でなんとかできないものばかりで構成されているということだ。それがそもそもの問題ではないか?毎日はお金をつかわなくたって、僕らはやっていける生き物ではないか?

お金への依存度を下げること。サバイバル力を上げること。

僕は何もできない。火も起こせない、野菜も育てられない。電気とお金が止まったら、イコール僕の人生も止まる。

それが嫌で、少しでも身体を使うようにしようと思った。まずは電化製品を減らすことにして、洗濯機を手放し、炊飯器も手放した。それで二年目、でも十分に生きていられる。使っていた頃は便利だった気もする。けれど僕はそれらをほしくはなかった。必要としてもいなかった。でもそれを使うために、僕はお金を必要としていた。


ただ生きるのではなく、ちゃんと生きる。僕がテーマにしたいのは、そんなことなのかもしれない。人と話すってなんだ。仕事をするって、それを一緒にするってなんだ。そんな、考えなくても問題のないことを蔑ろにしないこと。今の時代にだって「ただ生きている」はたくさんある。ひょっとしたら僕らはそうなりやすいのかもしれない。感覚を止めて働いていた時、僕はそれだった。

大事なのはlife-sizeでいることで、ほしいのは理性的な必然性より感情的な納得と実感。

「等身大」life-sizeという言い方はまさにだなあ、と思う。ここに書いたぐちゃぐちゃが、今の僕のそのもの。小さすぎもせず、大きすぎもしない、僕の大きさ。そのlife-sizeを僕は探している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?