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坂元裕二リモートドラマ『Living(1-2話)』の感想と作品分析(コロナ禍の今こそ、描かれた作品)

2020/5/30にNHKで放映されたリモートドラマ「Living」第1-2話の感想と作品分析の記録。
イメージのポップさに比べて、中身は複雑でわかりにくいこの作品、よくわかったわけではないけれど私なりに読み解いてみたいと思う。
(2020.06.01執筆)


1、なんらかのメッセージ

このドラマは、コロナウィルス流行によるステイホーム期間という社会環境のなかにあって、役者やスタッフが大勢集まる従来のドラマ制作方法だと濃厚接触とのことで次々と撮影が中止になる中、「役者同士が実の家族や兄弟姉妹のみであれば、ステイホームしながらでもドラマが作れるんじゃないの?」というひらめきアイデアによって誕生した企画ドラマである。

まずとにかくキャストが豪華で、第1話は広瀬すず・広瀬アリスの実の姉妹、第2話は永山瑛太・永山絢斗の実の兄弟が登場。どちらの家族も初共演で、これだけでも見てみたくなるし、それに加えて、人気脚本家坂元裕二による“書き下ろしリモートドラマ”である点でも注目度が高く、放送を心待ちにしていたファンも多いという。

私もそのファンのひとりで、ワクワクしたお祭り気分で観始めたものの、でもそう手放しでは楽しませてはくれなかった。
1話がたった15分間のみのショートショートのドラマで、表面上はシンプルな構成で見やすいのだが、物語の中身は“ちょっと不可思議なファンタジー”で、なんだかよくわからないまま15分が過ぎてしまった。あまりにわからないのでもう1回観たんだけど、やっぱりよくわからない。ただそれなのに「このドラマには、きっと何らかのメッセージが込められている」というムードだけは胸に残る。不思議な感覚。

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2、宿命的なディスタンス

坂本裕二にNHKが脚本をオファーしたのは2020年4月下旬の事という。つまり、日本全国で非常事態宣言が発令されている最中で、外出を自粛しないとならないゴールデンウィークの直前にあたる。
坂本裕二といえば、“現代人の深層心理““人間関係の困難さ”を描く力で定評のある脚本家である。このタイミングで突貫のリモートドラマをオファーされて、ドラマの背景にこの“現代人が初体験するソーシャルディスタンスの世界的課題”を描きこまないわけがない。
このドラマには否応なく「ディスタンス」の要素が見え隠れはする。しかし、直接的には何も言及されないので、その正体にたどりつこうと“視聴者個々人が自分なりに考えなくちゃ”ならない。


ディスタンスとは「隔たり」だ。
コロナウィルスの流行によって、人と人は、お互いのあいだに“距離”をとりあわなければならなくなった。

しかしこのドラマ自体は、3月以降、各局で実験されている他のリモートドラマとは違って、登場人物たちは同じ空間に居て、互いに触れ合っている。画面を3つ4つに分割したようなzoomの画面を使った遠距離ドラマではない。
ただし、登場人物たちは、物語の中でなんらかの事情で「ディスタンス」を抱えている。

第1話でいえば、ホモサピエンスとは交わるわけにいかないという「ネアンデルタール人の悩み」。
第2話には、生まれた後に国境ができてしまって「国籍が異なる兄弟」。
みんな何らかの“隔たり”を抱えて生きていることが描かれる。
(ここらあたりから、見てない人がこの文章を読んでも、まったく何の話しだか想像つかないと思うが、これ以上の説明のしようもない…)

しかも、その隔たりは“宿命的な隔たり”である。
ネアンデルタール人は、絶滅か存続かが関わる「種をかけた問題」だし、メガネ兄弟のほうは、兄と弟の国同士で「戦争が今にも始まろうと」している。
本人たち自身では覆しようのない大きなチカラによる“隔たり”が、彼ら彼女らの人生に刻印されている。「距離を近づけるわけにはいかない理由」がそれぞれに義務づけられている。

3、“隔たり”を突破する

しかし、彼ら彼女らは、livingというプライベートな空間の中ふたりきりで過ごしながら、この“宿命的な隔たり”を今まさに破ろうとしている。
手と手を心の中でしっかりと握りあって、“愛の力”によって。
その瞬間をドラマにしている。

ネアンデルタール人の妹はホモサピエンスの少年に恋をしてしまった。絶滅危惧種のネアンデルタール人はネアンデルタール人同士で結婚をして子供を産まないと純粋なネアンデルタール人はもう絶滅してしまうかもしれないが、「種の保存よりも、好きな気持ちが一番大切だよ」と姉は妹の背中を押す。そして、謳おう!と誘う。鼻でハーモニカを吹き鳴らして。絶滅なんかよりも大切なことがある。踊ろう!罪悪感を消し飛ばしちゃうようにおどけまわる姉妹。

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そして兄弟のほうは、これから国際戦争がはじまるが、もし、戦場でばったりふたりが敵同士として出会ってしまったとしても、このふたりは“相手を撃つ”ことなんてない。“エライ人”に撃てと命令されていても。“はじめから諦めなさい”と新しい教科書に教えられていても。一緒に泣き笑いしながら食べた“コロッケの温かさ”が、きっと兄弟をそうさせる。「熱い、熱い」「うまい」「熱い、熱い」。

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“隔たりに抗う”とか、安易に要約してしまうと「ディスタンスしなくていいという意味か?」と炎上するが、そんな野暮で直接的なメッセージではなく、どの時代の誰もがなんらかの形で抱えている“断絶”はあり、コロナウィルスもそのひとつでしかない。コロナウィルスだけが特別なものではない。ステイホームがこの世の終わりではない。作者はそう伝えたいの「かも」しれない。
人類は、これまでにもいくつもの“宿命的な隔たり”を背負い、それでもここまで数千年、数万年の歴史を生きながらえてきたし、未来もどうやらしばらく続いていく。リビング(Living room)を心の支えに、これまでもこれからもリビング(生命)していくのだ。

(おわり)
※3-4話の感想分析はこちら↓


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