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【美術館やアートの楽しみ方】 #03 絵のフレームの“外側”を楽しもう (2018フェルメール展より)

今回は、絵画作品に描かれたモノ“そのもの”ではなく、その絵のフレームの“外側”に画家が何を描こうとしたのか、それを「想像して楽しもう」ということについてまとめてみました。

題材にしたのは前回に続き、2018年に東京で催された『フェルメール展』(上野の森美術館 2018年10月5日~2019年2月3日)です。

前回はこちら↓

1、絵画は“フレームにしばられる芸術”

絵画には必ずフレーム(フレーミング)がある。
画家がある風景を絵画作品にしたいと考えた時、その風景のどのタイミングを、どの角度から、どの範囲で切りとるのか。
まずそこに画家の意図や狙いが反映される。

あらゆるアートのジャンルの中で“フレーミングがまったくない芸術”というのは存在しないと思うが、特に絵画は「フレームにしばられる芸術」である。

紙や、キャンバスや、屏風や、襖など、どこに描くかはいろんな場合があるが、キャンバスであればそのキャンバスの大きさに合わせて、描ける範囲に描きたいものを収めるしかない芸術といえる。

たとえば、絵画に一番似ていてフレームにしばられる芸術はといえば「写真」だ。どうあがこうが撮る範囲は選ばないとならない。
「演劇」も“ステージ(舞台の上)”というフレームに基本的にしばられるが、最近は廃校をすべて使った演劇作品や街中で繰り広げる作品など、フレームの枠を崩そうとする挑戦も始まっていて面白い取り組みなのだが、これはまた別の機会にまとめよう。

2、フレームの“外側”にいる人を描く

2018年の東京上野のフェルメール展には、フェルメールの現存するたった全35作品のうち、日本では過去最大となる9作品もが同時期来日。

今回はその9点の中から『手紙を書く婦人と召使』という作品に着目する。
フェルメールはこの作品の他にも、“手紙を書くシーン”を好んで描いている。

絵画の“作中”で手紙を書く、というのは不思議なものだ。
手紙とは、フレームの枠の外側へと想いを馳せる象徴であるからだ。

絵画作品は「そのフレームの中ですべてを語り尽くす」ことが基本になる。
しかしこの作品には「フレームの中には不在」の「文通の相手」という登場人物がいる。

そのことにきっと、フェルメールはおもしろいと感じたはずだ。だから好んで「手紙を書いたり読んだりする人々」を描いたのではないか。

フェルメールがなぜそんなにも手紙に強く興味を持ったのかというと、それはきっとはじめて“手紙を送り合う文化”に触れたからだ。
フェルメールが生きた17世紀のオランダ、ここで人類史上で初めて「市民のための郵便制度」が整備され、人々が手紙を送れるようになった。

一般の市民が相手とコミュニケーションをとるためには、今までは会って話すしか方法がなかった。
それが手紙の登場により、遠距離で話せなかった相手や、一目につかずに会話がしたい相手と、手紙を通じて対話をすることが初めてできるようになった。

3、絵画のフレームの“内側と外側”

この婦人が書く手紙は、おそらく恋文で、筆を進める婦人の表情が楽しそうで印象的。
“手紙を書いて相手に思いを伝えられる”という喜びが描かれている。そんなことは今まで叶わなかったことだ。“今ここにはいない恋人のことを思いながら、手紙を書いている”という時間が作品に切り取られていて、その手紙はいつか“今ここにはいない恋人”の手元に届き、封が解かれ、その手紙を“恋人が読む時間”が訪れる。
手紙の到着を待つ、相手の恋人の待ち遠しさまで浮かびあがってくるようだ。

フェルメールが「手紙を書く」あるいは「手紙を読む」という行為を好んで作品化するのは、生まれたばかりの新しいインフラの登場によって人々のコミュニケーションが変化していく面白さと、それを絵画に描きとる事によって、本来の絵画が持つフレームという枠の制限を越え「外側へと拡張する効果」を期待してのことなのではと想像できる。

4、描かれていないものを想像しよう

その後、手紙というインフラは数世紀をかけて世界中で発達し、20世紀になるとコミュニケーションテクノロジーは急速に発展を迎える。
電話が生まれ、携帯電話が生まれ、インターネットが生まれ、eメール、SNS、チャット、と発展は続く。(2019年現在)

現在は、遠く離れた恋人とでも電話を通じて気軽に会話ができるし、誰にも悟られずいつでもチャットで即時に愛も確かめあえる。
“コミュニケーションデバイスの発展”は、人間の行動様式やライフスタイルに大きな変化を与えてきたのである。

我々現代人はそれに慣れてしまって、ケータイがあるから繋がれる“喜び”を忘れがちだが、フェルメールの作品の中で“手紙を書いたり読んだりしながら一喜一憂している人々”を見ると、その“繋がれる喜び”の原点に想いを馳せる。

(『窓辺で手紙を読む女』(1657) ヨハネス・フェルメールの一部)

絵画は、フレームの枠の中にしか画家は絵を描くことはできないが、その“枠の外側にあるもの”まで鑑賞者が想像をしてしまうような作品になれたなら、絵画はより広く大きな作品へと拡張できる可能性を秘めている。

鑑賞者側の我々は、画家が絵画作品に描いたモノ“そのもの”だけではなく、その絵のフレームの“外側”に画家が何を描こうとしているのか、それを「想像して楽しむ」ことができたなら、よりいっそう美術展を楽しむ奥行きが増えるだろう。
絵の外側のことだから、その空想には正解も間違いもないので自由な発想でかまわないのである。

さて、最後に。
もしもフェルメールが2019年を描くとしたら。

昼下がり、窓から陽のさしこむ小さな部屋のなか、熱心にスマホでLINEをしながらほほえむ女性がたたずんでいる。フェルメールはそういう女性像を興味深そうに何枚も描くんじゃないだろうか。

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