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親は命令形を使うべきか ー 信田さよ子「後悔しない子育て」を読んで

信田さよ子の「後悔しない子育て」は、過酷な虐待からギリギリのところで生き延びたサバイバーたちによる、これだけはしてほしくなかった、という言葉から逆算して書かれた育児書である。毒親の世代間連鎖を恐れている人、自分が知らず識らずのうちに子どもを傷つける接し方をしていないか不安な人は、ぜひ読んでみると良いかもしれない。

私は幸運にも、概ね恵まれた環境で育ってきたようで「まさに私のことだ!」と思うような箇所があまりなかった。なので本書全体についての書評は、他のよりよい書き手にゆずりたいと思う。

しかし唯一ひっかかったのが、子どもに「〜してください」のような「頼む口調」を使うな、「〜しなさい」のように命令形で言え、という主張とその理由だった。曰く、親と子どもの権力差、支配と被支配の構造はどう取り繕っても確実にそこにあるものであり、対等をよそおうのは大きな欺瞞である。親が命令口調で言ってこそ、そのように命令したことに伴う結果も、子どもの反抗も、すべてを引き受ける主体として明確になれる、というのだ。命令形で言われるからこそ反抗できる、もし親が「頼んで」しまえば、それに反抗しようとする子どもの側が悪者になってしまう、という。わからないでもないけれど、これは、アドラー心理学の「どんなに欺瞞であっても、すべての人とヨコの関係を作ろうとせよ、相手の課題に踏み込むな」という主張と対立する意見ではないだろうか?

相手の希望を尊重するというのは、親切なようでいて、ともすれば自己責任を取らせることになる、と指摘にはハッとした。あなたが選んだのだから、それで不幸になっても自業自得でしょ、と。信田さんの指摘とアドラー心理学が対立するのはまさにこの点だ。アドラーは「馬を水場に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない。水を飲むか否かは相手の課題であって自分の課題ではないから一線を超えるな」という。しかし、もしその水場で飲まなければ脱水で死んでしまう場合、馬の首根っこを捕まえて水に押し込んででも強制することが「正義」だろうか。馬の生命維持をとにかく優先することと、馬が選んだ自分の生き方・死に方を尊重することは対立しうる。

子どもが、自分で情報を比較検討して決断できぬほど幼い場合、大人が介入せずに相手に任せることは、養育責任の放棄にもなりえるし、子どもを対等な一個人として尊重することにもなりえる。というか、大人が介入しないことで発生する失敗が小さいものなら、むしろ失敗したほうが得るものは多いと思うが。

そこで思考実験をしてみる。「未成年の子どもとその養育者」という関係ではなく、「初めて日本にやってきて右も左もわからない外国人(大人)と日本在住の私」というケースで考えてみよう。この場合もまた、その外国の方が自立して生活できるようになるまで、なんらかの援助が必要という意味で、ある種の「権力差」があり、彼に代わって何かの選択をするとき、日本での経験がない彼の意見と、在住人の私の意見は対等たり得ないかもしれない。しかしだからといって、ひとりの大人である彼に命令形を使うのには強い抵抗感がある。私が命令形で例えば「ゴミはこの場所に出せ」と言うことで、彼はその場所にゴミを出して間違っていたとき、私のせいにできるし、「いや、ここには出したくない」と反抗もできるだろう。もし「ゴミはこの場所に出してください」と頼む口調でお願いしたらどうか?間違っていた場合はやはり私のせいにできるし、嫌だと反抗もできる気がする。わざわざ命令口調でいうことに意味は見出だせない。

では「重度の障害があって全生活に介助が必要な人と、その介助者」という関係性はどうか。この場合にも、ある意味、権力差があるが、その権力差を隠すのは欺瞞だとして「命令口調で語ること」が妥当だとは全く思われない。

この世の異邦人である子どもと、空間的異邦人である外国人の大人と、健常者を標準に作られた社会で異邦人である障害者を、それぞれ区別して取り扱うなら、子どもの未熟さを何に帰しているのかとか、それは子どもへの敬意を欠いているのではないか、という疑念が残る。

岸見一郎・古賀史健の「幸せになる勇気」を読み返していると、教育を強制的な介入に転落させず、自立を促す援助に踏みとどまらせるための指針は尊敬である、教えられる側である相手に尊敬の念を持つべきだ、という記述があった。「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である。尊敬とは、その人がその人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである」と。信田さんの主張に、「子どもへの尊敬」をどう読み取ればいいのだろうか。

小津夜景「いつかたこぶねになる日」で、とても好きな言葉がある。

未知の世界に漕ぎ出せば、そりゃあ死ぬかもしれないけど、でも自由を知ることができるのよ、あなたが死んでもおかあさんはがまんするから、遠慮なく好きなところへ行きなさい。

小津夜景「いつかたこぶねになる日」

子どもが生まれて、どんなに愛おしく大切な存在であるかがよくわかると、この言葉は並の覚悟では言えないと切に思う。しかしそれでも、子どもを、死ぬかもしれない未知の危険から守ることより、例え死んでしまっても、子どもの魂が自由であることを尊重する。そういう親でありたいと思う。

息子よ。反発したくなったらどうぞ反発してくれたらいいけど、同意できない理由を教えてね。私も理由を説明するから。まだしゃべれないあなたが望んでいることを、すべて把握することはとてもできないから、つい強制になってしまうことがたくさんあってごめんね。私は、縁があって、あなたの権利執行を代行しているけれど、あなたの成長とともに、代行しなくてよくなった権利を少しずつ返還していくね。病院で、予防接種の跡に貼るシールをもう自分で選べるようになったみたいに。

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