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狂おしいほど心惹かれる何かを探して

理学部棟にはいつも、珈琲と古い本の香りが漂っている。その空気を胸いっぱいに吸い込むと、体の隅々までエネルギーが行き渡る気がする。 本棚を隅から隅まで目で追いかけて、宝物のように光る一冊が見つかったときの、クラクラするような興奮。物理図書室は、私にとって特別な場所である。人類の知の膨大な蓄積が作る花園には、あちこちに、誘い込むような小道がのびている。このうえもなく魅惑的な何かが、この庭にひそんでいるのを感じる。今いる小径のすぐ先、あるいは、その葉叢の陰に隠れているのかもしれない。でも、それが何か、まだわからない。こうした予感に包まれているのは、何という喜びだろう。その小道のひとつひとつをすべて歩き回ってみたい気持ちを抑えて、今歩いている道を一歩ずつ進んでいく。この道の行く末と、そして、まだ歩き回っていない小道への誘惑が、私の心を捉えて離さない。私を魅了するのは、宇宙そのものや、素粒子そのもの、相対論のようなそれぞれの理論そのものといった対象ではない。物理が解き明かしてきたその驚くべき世界像が、地球上で日々飲み食いし眠る我々の日常の思考から、数え切れないほどの推論の連続の果てに、結論としてつながっているという事実そのものだ。推論の鎖を紡ぎ、理論を作り出すということは、真っ暗な足元に明かりをともし、新しい風景を見出すということだ。新しい風景を見たい、それが私を突き動かす。

というのは、とある奨学金を申し込むために書いたエッセイの出だしだ。これを英文で提出しないといけなかったのだが、私にはどうしても英訳できなかった。学術論文みたいな英文の作成には慣れていても、こういう内面的な文章になると、自分の英語表現や語彙の貧しさに気づく。実はここに書いた、花園の中の蠱惑的な小道のイメージは、高楼方子の児童小説「時計坂の家」によっている。好きな本は色々あれど、一番特別な愛着のある一冊といったら、間違いなく「時計坂の家」だ。「時計坂の家」で記述される、狂おしいほど心惹かれ、憧れる気持ちは、私自身が山の中を探検するとき、図書館を探検するときに感じる高揚感とリンクしていて、読み返すと「そうだ、こんな気持ちこそ、生きているという実感だった」と原点に立ち返らせてくれる。


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