かたつむりの標本
こちらのかたつむりの標本、生きているときはうちの子でした。
かたつむりから殻をひっぺ剥がすとなめくじになると思ってる人がいますが、それ、やっちゃダメなやつです。
そこ、引っ付いて、たぶん、神経とか体液とか、ちゃんと回ってるところですから。
かたつむりは宿借りではないので、殻も身とともにどんどん大きくなっていきます。
殻を傷付けることは、かたつむりを傷付けることです。
それを、生きたこの子から教えてもらったのは、ほんとうに、申し訳なかった。
この子は、プラスティック製の小さな虫かごで飼育していました。
かごと云っても、かご状になっているのは黒の蓋だけ、本体は透明なBOX型で、メダカも飼えます。
何やらご機嫌のよいときは、つのだのやりだの目玉だのを、ぴいんと伸ばしたり、縮めたりしながら、身をうねうねと波打たせ、BOXの壁をぐるぐる回ってお散歩します。
速いんですよ、けっこう。
かたつむりといえばゆっくりと思っている方には、是非ご覧に入れて驚かせたいくらいです。
喰っているとき、深夜など耳を澄ますと、しゃりしゃりと音を立てています。
後は、出しているか(排泄)やっている(交接)か。
なんだかはっきり見えませんが、それらみんなを口のあたりでぐちゅぐちゅやっているようなのは、みどりだったりあかだったり、黒っぽかったり白っぽかったりするものが、そこらでぐちゅぐちゅとしているので窺えます。
でもまあ、たいていは、殻に引きこもって眠っています。
眠っているかたつむりは、葉っぱであれば上ではなく、裏にくっついています。
そうやって、ぶら下がっているのが好きなようです。
ですからこの子も、見るとまあ、ほとんどのときは、蓋にくっつきぶら下がり、しいんと眠っておりました。
この子は特に、蓋のちょうど角のところで、そうするのが好きでした。
この子の、大きな方の家であるBOXを掃除するのは、私の仕事でした。
土や枯葉は入れずに清潔にしておいた方がよいとググったので、そうしていました。
寝ているこの子を起こさないよう、そっと蓋を取りひっくり返して横に置き、この子の好物の葉付き人参の食べかけやふんを取り出し、水をスプレーしてキッチンペーパーで拭くのを繰り返す、というやり方をしていました。
壁も、この子がうろつき回れば粘液の跡がうっすらと積もっていくので、それが透明になるまで拭き上げます。
そうしてきれいになったところで、新しいえさを入れ、またそっと蓋をしたある日、ぐしゃりと嫌な音がしました。
きゃあっと、私は声を上げました。
蓋から落下したであろうこの子は、せっかくきれいになったBOXの底に、ごろんと転がっていました。
この子の殻が、潰れているようにも、そうでないようにも、見えました。
しかし潰れていないわけはないのは、私の手の感触が知っていました。
動揺し、震えながらも、私はリビングに行き、pcを開いてググりました。
「かたつむり」「殻」まで入力すると、「割る」と続いた情報を閲覧しました。
かたつむりの粘液には優れた修復効果や防汚効果があり、躰の一部である殻が損傷した場合には、それをもって覆い、修復を目指す、しかし果たせずに死ぬこともある。
人に出来る手助けは、乾燥させないこと、清潔を保つこと、殻の材料となるカルシウムを含むエサ(具体的には卵の殻)を与えること。
やれることはやって、あとは祈るしかない。
そう覚悟を決めた私は、pcを閉じ、様子を見に戻りました。
落ちていたこの子は、いつのまにか、また蓋にくっついてぶら下がっていました。
傷付きふらふらになったこの子が、必死に、壁をつたって登り、どうにか、いつもの場所に辿りついた姿を想像しました。
そしてじいっと殻に引きこもり、修復にエネルギーを回して、この子は生きようとしているのだと、感じました。
たぶん、大丈夫だ。
そう信じながらも、どきどきしながら、毎日そっと霧吹きで水を吹きかけ、引きこもるこの子を見守りました。
二週間は過ぎたと思います。
ある日この子は殻から身を伸ばし、しゃりしゃりと人参をかじっていました。
よかった、ごめんね、ありがとうと思い、目が潤みました。
かたつむりを飼っていると人に話すと、間違いなく「えっ?!」という反応を引き出せます。
続けてかたつむりについて語ると、引かれます。
かたつむりになら言ってもいいと思われるのか、たあいもなく「キモイ!」と言われます。
まあ別に、いいんですけれどね。
その人たちが、かたつむりにもこの子にも興味がないように、私も、その人たちに興味がありませんでしたから。
そうしてこの子と過ごして三年になろうというある日、この子がごろんと、転がっていました。
まるであの日のように。
殻に傷など見あたりませんでしたが、心なしか艶がないようには思えました。
しかし目を塞ぎました。
BOXの清潔を保ち、霧吹きを使い、やさしく、この子に水を吹き付け続けました。
数日後、この子に蛆が湧きました。
小さく、細く、短いけれどひょろっとしている、わらわらうねうねとした生々しい大群が、この子に取り憑いていました。
私はいよいよ目を塞ぎ、放置しました。
翌日、私は意を決して、この子が蛆と横たわるBOXの蓋を開けました。
コバエが数匹、飛び立ちました。
割りばしでキッチンペーパーを挟んで使い、蛆を潰しました。
限界を感じたところで、手を止め、蓋を閉じました。
吐き気と涙が出ました。
何日も、繰り返しました。
手を付けられなかった日もありました。
やがてこの子の殻だけが、からんと転がりました。
こうしてこの子は殻だけの、かたつむりの標本になったのです。
標本になって初めて、ライトの下でよく眺め回した殻には、引き攣れたような模様がありました。
あの日私が傷付けて、生きたこの子が治した傷の跡が、確かにありました。
もう、これ以上、治ることもなければ、朽ちることもない標本を、私は何気に大切にしています。
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