子どもに夢を与える
児童劇団(児童向け新劇)の制作に関わり40年という方にお話を聞く機会があった。
魔法だの妖精だのを信じちゃいないくせに、「子どもには空想の世界、ファンタジーが必要よね。しかも良質の。」などど、もっともらしく言う。
そういうのを、「子どもだまし」と言うのだよ。
子ども向け=ファンタジー、大人ならそうではない、という感覚なのでしょう。
腹が立った。
しかしよく考えて見れば、この手の大人をこそ、子どもの私は嫌っていた。
つまり、「子ども向けのお話」を作る大人はこうゆう輩だと知っていた。
それなのに大人になった私は、児童劇団の人だから子どもの世界を理解しているはずだと、期待していたのだった。
私も妖精がいるとは思っていない。
死者が甦るとも思っていない。
しかし、人がそうと信じられる感覚を持つことができると知っている。
青い鳥のチルチルが、帽子のダイヤをまわしてチャンネルを変えるように。
子どもは容易にそうなることができる。
多くの子どもは、そうとは意識せずにこちらの世界とあちらの世界を行き来している。
あちらの世界では、死者と会い、話すこともできる。
大人がそんなふうにあちらの世界と交わったとき、その体験を奇跡と呼ぶ。
あちらの世界には、あちらの世界の美しさがあり、喜びがある。
私はこの世界が美しいと信じているが、その根はあちらの世界に生えている。
あの有名な夢の国に連れて行かれた子どもの私は、「中に人が入っているじゃん。」と言った。
大人は「さめている。」とか「夢がない。」と言った。
サンタはいないと信じている大人だけが、大人がサンタのふりをすることで子どもに夢を与えることができると間違う。
自分勝手な空想でファンタジーの世界を創ることが出来ると思っている大人は、子供があちらの世界の話をしても、それは空想だとまともに相手にしない。
チルチルとミチルの冒険談を、取り合った大人はいなかった。
同様に、私の言葉も取り合わない。