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映画感想 神々の山嶺

 フランスの名作アニメ映画誕生!

 『神々の山嶺(いただき)』は夢枕獏による小説だ。1994年から1997年まで『小説すばる』にて連載し、1997年8月集英社より単行本が発売される。2000年谷口ジローによる漫画版の連載が始まり、この漫画版は2001年に第5回文化庁メディア芸術祭マンガ部門・優秀賞を受賞する。
 2016年には『エヴェレスト 神々の山嶺』というタイトルで実写映画化。監督は平山秀幸、主演は岡田准一、阿部寛が演じた。
 今回視聴したのはそのアニメ版。アニメ版のタイトルは『Le Sommet des Dieux』。直訳すると『神々の頂上』というタイトルになる。制作はフランスとルクセンブルク。監督はパトリック・インベール。パトリック・インベールのキャリアを掘り下げると、長編映画の監督はこれが2作目。1作目は『ビックバッドフォックスとその他の物語』というオムニバス映画の中の1編を監督している。こちらの作品はどうやら日本には紹介されていない。パトリック・インベールは監督の他にアニメーター、脚本家、サウンド・エンジニアでもあり、いろんな作品に関わっている。本作アニメ版『神々の山嶺』でも自身で脚本を書き下ろしている。
 アニメ版は谷口ジローによる漫画版の権利を獲得した上で制作されているので、漫画版に基づいた内容になっている(残念ながら私は原作版も漫画版も読んでない)。これも谷口ジローの漫画がフランスで高い評価を勝ち得ているからだろう。しかしフランスには本作のような大規模なアニメ映画を制作する体制が整っておらず、予算はフランスが70%、ルクセンブルクの映画基金から20%、さらに様々な官民の投資家の助けを借りてようやく制作スタートまでこぎ着けた。
 制作はフランスのアニメーション会社フォリヴァリが中心になって、ルクセンブルクのアニメーション会社もアシストする形で制作に参加している。
 アニメ『Le Sommet des Dieux』は2021年に発表され、第74回カンヌ映画祭で上映され、高い評価を勝ち得て2022年セザール賞で最優秀アニメーション賞受賞、リュミエール賞でも最優秀アニメーション賞を受賞。日本では2022年7月8日より日本語吹き替え版が劇場公開された。

 それでは前半のあらすじを見ていこう。


 高く、さらに高く登り続ける。だが、何のために?

 雑誌カメラマンである深町誠は、日本の登山チームとともにエベレストの南西壁にやって来ていた。その後ろ姿を見送るように、何枚もカメラのシャッターを切る。一見すると順調な登山に思えたが――。
 無線が入った。「こちらベースキャンプ。聞こえるか。谷間から雲が来ている。すぐ戻れ」
 深町誠は無線を聞きながら、山の風景と、登山チームの後ろ姿を見守る。深町誠の目には嵐の兆候は見えない。登山チームの目にも。
「あと少しで登頂です。やってみます!」
「ダメだ! もう時間がない。戻れ! 聞こえるか!」
 登山チーム一行は山頂を前にして、引き返すのだった……。

 山を下りて酒場に入ると、深町誠は日本の編集部と連絡を取り、登頂を断念したことを伝える。そんな電話をしていると、深町誠の側に怪しい男が近付いてきた。
「特ダネがあるんだけど、どう? マロニーのカメラに興味ないか? ほら、登山家のマロニーのカメラだよ。雪に埋もれていた本物だ」
 と男は古いカメラ――ベストポケットコダックをちらつかせる。
 ジョージ・マロニー。1924年、37歳だったジョージ・マロニーは「これが人生最後の挑戦」と決めてエベレストへ登った。エベレスト南西壁、無酸素登頂の挑戦だった。しかしそれきり帰らずの人となり……マロニーが登頂を成功させたかどうかは山岳界のミステリーとなっていた。
 怪しい男だ……。深町誠は男を追い払う。その後、酒場を出て何気なく路地を覗くと、さっきの男が何者かに襲われていた。なにかただ事ではない……深町誠がその様子をじっと覗いていると、襲撃者がベストポケットコダックを奪い取っていた。その去り際に、襲撃者の顔に光が当たる。手にも――指が2本ない。深町誠ははっとする。羽生丈二だ。数年前に姿を消していたクライマーの羽生丈二だ。しかし羽生丈二は深町誠に見られていることに気付くと、路地裏に消えていくのだった。

 日本に戻った深町誠は、羽生丈二の行方を追い始める。古い雑誌を読みあさり、関係のあった人に会って話を聞いたりする。
 羽生丈二……1960年代、山岳界に彗星のごとく現れたクライマーで、早いだけではなく動きが綺麗で天才的だと称賛されていた。数々の初登頂の記録を作り、山岳界にくっきりとした歴史を残す。すごい山屋が現れたと話題をさらい、右に出る者はいないとまで言われたが――ある時、忽然と姿を消した。
 話を60年頃まで遡ろう。羽生丈二は優れた才能を持っていて、自身もその才能を自負していたが、チャンスが与えられないことに憤っていた。最終目標はもちろんエベレスト登頂だが、そのチャンスはいつも実力もなく遊んでいるだけで、ただ政治力の高いやつばかりに回ってくる……。
 注目されなければダメだ。誰も登頂を成功させていない、難易度の高い山に挑戦しよう。
 そうやって決意を改め、記録を作り、山岳界でさらに注目の存在になっていった。そんな羽生丈二の前にライバルが出現する。長谷常雄だ。長谷常雄は羽生丈二の後を追うように記録を作っていき、外向的で明るい性格の彼は次第に注目を浴びるようになっていく。
 羽生丈二も挑戦を続けるが、しかし目的のためなら周囲などかまわないような性格の彼に、次第に誰もついていかなくなり、たった1人で登山するようになっていった。そんな羽生のもとに、彼を尊敬するという若者、岸文太郎がやってくる。
 羽生丈二は経験不足の岸文太郎を連れての登山に渋ったが、文太郎の熱意に押されて連れて行くことに。しかしその登山中に事故を起こし……文太郎は谷底へと転落していく。この失敗が羽生の大きな影を落としていく。


 ここまでで30分。すでに内容が濃い。あまりにもクオリティが高いので、見始めたらもう引き返せないはずだ。

 本編を掘り下げていくのだけど、ちょっとその前に……。

 深町誠の自宅の本棚。並んでいるタイトルを見て「お、おい待て」となる場面。これ、監督の好きな日本のアニメ関係の本だろ。確認していないが、たぶん並んでいる本のほとんどはこの物語の頃には出版されていないはず。という以前に、山岳カメラマンの本棚としてはかなり不自然。リアルな風景描写の作品だけど、実は意外と遊んでいるところは遊んでいる。

 もうひとつこの場面。注目は画面左手の2人のおじさん。物語に関係ないのに、なんとなく意味ありげに主人公たちと同じ方向を見てている。余計な情報になるので、作法として良くない。そんなことは作り手もわかっているのに、なんでこんな目につくようなおじさんを描いたのだろう……。
 しばらく「なんだろうなぁ」と考えていたが、こうやって画面を止めて見ると「あ、そうか」とわかった。ジブリファンならすぐに気付いたと思うが、宮崎駿と高畑勲だ。こういう意外なお遊びもある作品だ。

 さて本編に入っていこう。

 映画の冒頭、深町誠はエベレストにいて、今まさに登頂に挑戦しているチームを見守っている。しかし無線から連絡が来て、しぶしぶ引き返すことになった。深町誠は無線で、チームの無念の声を聞く。
 原作では深町誠自身もクライマーで、エベレストで仲間を喪った……という設定があるようだが、アニメ版の設定はやや異なる。アニメ版で深町誠の行動動機となっているのは、この時「登頂を見届けられなかったこと」。山頂を間近にして引き返すしかなかったチームの無念が、深町誠の“心残り”となっている。

 次に注目の場面はこちら。羽生丈二の少年時代のお話しだ。
 本作のストーリーは、深町誠が過去の雑誌や関係者から話を聞いた上で、「きっとこういうことだろう」と思い描いたお話し……という構成になっている。そういうわけで、一貫して羽生丈二が何をした、何を言った、といった「情景」は描かれるが、基本的に「心情」が描かれていない。深町誠からは羽生の心情はわからない……という構成になっている。
 でもこの場面、羽生の少年時代の光景だけは深町誠の取材に基づく場面ではなく、モノローグ解説もなく、ちょっと不思議な場面になっている。
 この場面で羽生少年は、無言で山に登っている。なぜ山に登っているのか、その前後にどんな物語があったのか……なにも解説がなく、ただ登っている場面だけが描かれる。ようやく登頂し、そこで沈む夕日をただただ見ている……。
 これが羽生丈二にとっての“原初的な体験”ということになる。理由がない。ただ登りたいという衝動があって、それに駆り立てられるように登っていた。これが羽生が「なぜエベレストを目指すのか」その究極的な理由となっている。

 しかし羽生丈二はクライマーとして周りから注目され、称賛を受けるようになると、才能を持った者が陥る典型的な反応……性格が独善的になっていく。子分的存在となった井ノ上に対し高圧的に振る舞い、行動や考え方までコントロールするようになっていく。山岳仲間に対しても傲慢。この頃の羽生丈二は「周りから称賛されたい」「もっと注目されたい」という世俗的理由を行動の動機にしていく。
 そうしなければ「エベレスト登山」のチャンスが得られないから……という事情があったのだけど。

 ある飲み会で、山岳仲間がこんな話をする。
「ザイルパートナーが壁で宙づりになって相手は怪我をして意識がないし助けも来ない。パートナーの体重で身動きできないとなったら、ザイルを切っちまうか?」
 傲慢な性格になっている羽生丈二は、「俺なら切る。2人とも死ぬ意味はない」と即答する。山の中だったら俺はいつでも正しい判断ができる。頭の中でシミュレーションした通りの決断をいつでもできる……なぜなら俺は天才だからだ。羽生丈二は自分ではそういうつもりでいた。

 ところが間もなくその通りの事態が起きてしまう。文太郎を連れて岩壁に挑戦していた時、文太郎が足を滑らせてしまい、宙づりになってしまう。画面を見てのとおり、完全に身動きが取れない。羽生丈二も岩壁にしがみついていて、やはり身動きが取れない。絶体絶命の膠着状態。
「俺なら切る」……しかしいざその場面に遭遇したとき、そんなことはできなかった。
 どうしよう、どうしよう……迷っているうちに、文太郎のほうが決断をした。自らザイルを切り、谷底へ落ちていった。
 これが羽生丈二にとっての“心残り”になってしまう。

 その後はしばらく長谷常雄というライバルが出現して、そのライバルと競うことが羽生丈二にとってのモチベーションになる。しかし長谷常雄との競争は「敗北」という形で終わる。羽生はグランド・ジョラスを登り切ることができず、一方の長谷常雄は達成してしまう。羽生丈二がメディアから注目されることはなくなり、これで羽生が「山を目指す理由」がなくなる。
 羽生丈二は周りから称賛されたい、自分の実力を認められたい……それが山に登ることの“動機”となっていた。さらに長谷常雄というライバルに勝ちたいという動機もあった。その動機をことごとく喪っていく。
 そんな状態でなぜエベレストを目指すのか? それが本作全体を貫く問いかけになっている。

 実は深町誠も「なぜ羽生丈二を追うのか?」その理由がない。この場面でも、女性に「ところで深町さん。羽生さんを探すのは、記事のため?」と尋ねられる。
 深町誠は羽生丈二がマロニーのカメラを持っているらしく、それを解き明かせれば山岳界の歴史が変わる……という話を理屈立てて話をしている。しかしそれはまったく相手に響かない。なぜならこれは「本心」ではないからだ。聞かれたときにこう答えよう……と理論武装している時の答え方だ。よくよく考えれば「羽生丈二の行方」と「マロニーのカメラ」は別件。深町誠が羽生丈二の経歴をとりつかれたように深掘りしていく理由とは結びつかない。
 ここがアニメ版の設定のうまいところで、羽生丈二がマロニーのカメラを持っている……ということにすれば(原作版では深町誠が故売店で入手することになっている)、一見するとそれが動機であるかのように見せかけられる。しかしそれは「第1の動機」、つまり「表層的な動機」に過ぎず、その向こうにある「第2の動機」、「本心」のほうが見えなくなっている。その本心がわからないまま、ただただ引き寄せられ続けている。そういう簡単に言語化できないような行動原理の物語としてうまく機能するために、カメラが有用なアイテムとして使われている。

 こういうテーマにジョージ・マロニーが出てくる……というところにも意味がある。「なぜ山に登るのか」「そこに山があるからだ」――この名言を生み出したのがマロニー。“理由がない”“ただ山があるから登りたい”……そういう原初的な理由を動機にしている、というところでマロニーをモチーフしている。
 映画の冒頭でもこう始まる。
「高く、さらに高く登り続ける。だが、なんのために?」
 映画の中でも何度も尋ねられる。「なんのために?」「何のためにエベレストを目指す?」「なんのために羽生を追う?」――そのどれにも答えがない。答えのないことを追い求めようとする男たちのお話しである。

 長谷をライバルとして羽生丈二はアルプス三大北壁アイガー、マッターホルン、グランド・ジョラスに挑む。だがほんの些細なミスで挑戦は失敗する……。
 しかも岩壁にしがみついている最中、「いつか一緒にアルプスに」と約束しあった文太郎の亡霊も出てくる。羽生丈二の“心残り”が映した幻覚だし、山という場所が現界と異界の狭間のような場所であることが示されている。
 この失敗によって、“天才・羽生”のプライドはズタズタ。人々は羽生に注目しなくなり、山に登りたくても誰も資金提供しなくなってしまう。完全なる“転落”が確定する場面だった。

 長谷が勝者で、羽生が敗者……だったはずなのに、その長谷はエベレストの南西壁で帰らぬ人となってしまう。
 その報道を、羽生丈二は無表情で見送る。おそらくはこれも羽生の“心残り”の一つに追加されてしまったのではないか。グランド・ジョラスでは窮地を助けてくれたライバル。登山家としての将来は断たれたが、“その後”を託したライバルが志半ばにこの世を去ってしまった。長谷常雄の事件を聞いて、どこか「自分が達成せねば……」という気持ちになったのではないか。

 長谷常雄がこの世を去って、羽生丈二も間もなく姿を消してしまう。羽生の足取りを追っていた深町誠は「羽生は長谷が達成できなかった南西壁に挑戦するつもりだ」という考えに至る。この時点で深町誠は、羽生丈二にかなり感情移入してしまっている。エベレストへ向かった……という証拠が出てきたわけでもないのに、心情だけを読んで「きっとそうだ!」という考え、さらに「自分も行きたい」という気持ちになってしまっている。
 間もなく羽生が最後に出した手紙を手に入れ、その手紙を手がかりにネパールへ向かうことになるが、この時の映像を見ると、深町誠の行動と羽生丈二の行動が重なるように描かれている。行動が重なり、気持ちが重なっていく。深町誠は羽生の人生を追いかけていくうちに、同じ気持ちになっていったのだ。

 行き先はネパールのナムチェバザール。Wikipediaによるとソルクンブ郡にある小さな村で、人口は1647人。標高3440メートルの場所にあり(ほぼ富士山くらいの標高!)、登山愛好家にとってヒマラヤ登山の拠点となっている場所だそうだ。
 この場所からさらに進んだところの小さな村に、羽生丈二はいた。羽生はこの場所でシェルパとして働きながら、南西壁ルートでエベレストに登頂できるチャンスを待っていた。

 この場所で羽生丈二も深町誠も自分の“心残り”を解消するために行動を始める。
 羽生にとってエベレスト登頂はもはや意味がない。登山家としての名声もすでに喪っているし、プライドも喪っている。資金もない。しかも最難関ルートである南西壁を、単独で無酸素で挑戦しようとする。“完全なる単独”だから、目撃者もいない。達成しても誰も認めてくれない。それでも構わない……という状況だ。
 そういう名声やプライドとは関係ない。“己の道”のみの話だ。
 羽生にあるのは、少年の頃、心惹かれるままに山に登っていたあの初期衝動のみ……。理由はないけど登りたい。そこに山があるから、という想い。
 それから文太郎と長谷という二人の死が羽生の背中に乗っている。エベレストに登ることは、ある意味の鎮魂だった。
 深町誠にとっては、エベレストに登りたいという登山チームを見送ることができなかった、という“心残り”がある。あの時に聞いていた無線の声が忘れられない……。羽生の挑戦を見送りたい、そして羽生が南西壁を達成できたという確たる証拠の写真を撮り、人々に知らせたい……。その想いで深町は羽生と同行することにこだわっていく。

 案内人であるシェルパにこう説明される。
「無酸素で行けば7500メートルで頭痛がする。そこから先へ進むのは至難の業だ。8000メートルで死が迫る。人間の体が耐えられる高度じゃない。決断しないと、手遅れになる」
 そもそもエベレストは人間が行くような場所ではない。8000メートル以上は「死の世界」だ。死の境界を踏み越えていく場所……。そこがなんなのか、というとタイトルにあるように「神の世界」。この作品はそこまで宗教色のある作品じゃないけど、太陽とはどこの文明でも「神」のシンボル的存在だ。エベレストは地上にありながら、その神にもっとも接近できる場所……。
 その神聖さに触れたい……というイカロス的な衝動。そういう場所だからこそ、文太郎と長谷常雄の鎮魂になる。神の座に挑戦していく男の物語になっていく。

 しかし深町誠は7500メートルを越えたところで猛烈な頭痛に襲われ、力尽きようとしていた。その窮地を救う羽生丈二。あの時救えなかった……ここで羽生はずっとつきまとっていた“心残り”を解消する。
 そこまで意図していたのかどうかわからないが、この時深町が来ていたダウンジャケットは赤……長谷常雄がいつも着ていたダウンジャケットと同じ色。救いたいと思っていたあの時の想いを、ここで達成することができてしまう。
 と同時に、嵐の接近を知りながらも、それでも山頂を目指す……そんな男の後ろ姿を見送る、という深町誠がずっと抱えていた“心残り”もこの後解消される。2人の男が同時に胸に抱えていた“心残り”が解消されていく。

 最終的に羽生丈二が登頂を達成できたのかどうか……は、わからない。というか達成できたのだけど、それは深町誠は知ることができない。でもそれは最重要ではなくて、重要なのは「そうなる未来を知りつつ目指そうとした男」の物語。それはマロニーが1924年にエベレスト登頂を成功させたかどうか……も重要ではない。誰が一番だとか、記録に残るとか、そういうのももはや重要ではない。そういう記録や名声とは無関係でも、内的な衝動に導かれて行ってしまった男の物語。言語化不能の動機を描こうとした物語。そこに意義がある。

 こんなお話しだけど、とにかくクオリティはめちゃくちゃに高い。1960年代から90年代までの日本の風景が見事に描かれている。フランスの制作チームが日本に来たかどうかわからないけど、遠い国にいながら見事なまでに昭和から平成初期までの日本を描ききっている。
 街の風景も凄いのだけど、出てくる日本人の顔! 体型! 日本人があまり描きたがらない「日本人の顔」をこれみよがしにしっかり描かれている。ここまで日本人の顔をしっかり描いたアニメ作品は沖浦啓之監督の『人狼』以来じゃないだろうか。

 それにセル画キャラクターと背景の合わせ方。

 上画像は『ヤマノススメ』のいち場面。山の風景をものすごく精密に描いているのだけど、キャラクターと背景の質感が合っていない。描写にこだわっているのはわかるが、しかしこだわればこだわるほどにキャラクターと背景が水と油のように浮かび上がっていく。

 こちらは『神々の山嶺』のいち場面。キャラクターも背景も抑制されている。キャラクターと背景は分離していないし、画面全体が絵画的にまとまっている。精密さでは『ヤマノススメ』よりも劣るのだけど、絵として落ち着きがある。

 それでいて、作業的な負担を減らす工夫があちこちにある。
 例えばこちら。

 どちらの画面を見てもわかるけど、背景にモブキャラがまったく描かれていない。編集部ならそこで働いている人がいるだろうに、まったく描かれていない。夜のシーンも、やはり人が描かれていない。背景モブが描かれているシーンはいくつかあるのだけど、ほとんど「止め絵」。

 キャラクターの線はやや太めで、全体の線も少なく、影も最小に……。これも労力を最小限にするため。キャラクターの止めコマがかなり多いのだけど、動く場合は必ずリアルに感じさせるような仕草をさせている。ただ、止め絵から動きコマに繋がる動きにちょっと違和感が残るのだけど……。(その違和感を薄めるために、止め絵のときに目のブレだけを入れるのはいい手法だ)
 どうしてここまで労力を省くような描き方をするのかというと、フランスアニメがそこまで潤沢な人材に恵まれているわけではないから。フランスのアニメーターだけではカバーしきれず、ルクセンブルクのアニメーターも参加してやっと……という感じだったから。これでもギリギリの感じだったのだろう。こういうところで国内に数千人のアニメーターがいる日本との差が感じられる。
 スタッフが力尽きてしまわないように労力を省略させつつ、どこを充実させるか……選択と集中ができている画面作りだ。

 もう一つ、秀逸なのは登山中の“身体感覚”の再現。上のコマはグランド・ジョラス挑戦中の一コマ。右手はどうにか動くのだが、左手はまったく動かない。右手を動かして感覚を確かめようとしている瞬間。こういう一コマを挟むことで、キャラクターが“絵に書かれたもの”ではなくあたかも実在人物の登山を見守っているかのような緊張感が生まれる。
 もちろん声優の芝居も凄まじい。登山中は当然ながら台詞はほぼなし。ほとんど息づかいだけの芝居になる。息づかいだけでどんな状況にあるのか……それをしっかり解説している。
 映画の最後のナレーション、冒頭とまったく違っていて、明らかに声がかすれてしまっている。それくらい芝居で消耗してしまっている……ということが伝わってくる。声の吹き替えも壮絶だったことが想像される。
 アニメーターが描いた演技、声優の芝居、これが一体となるから、凄まじい迫力。見ていて汗をかくようなシーンになっている。

 とにかくも全編見所だらけ。どの場面にも無駄がない。パーフェクトなアニメーション。控えめに言っても新しい名作だと言ってもいい1本。こういうテーマを持ったアニメが日本から生まれなかった……というのが私が抱いた“心残り”だというくらい。
 私は原作と実写版、それから漫画版も見ていないのだが、アニメ版はどうやら先行する3作と設定が違っているようだ。どうして変更されたのかというと、現実的な事情。フランスアニメには2時間の大作を作るほどの制作力がない。1時間半の内容でも、あちこちに手間を省くための工夫が施されている。省略しなければならなかったから、詳しい描写が省かれてしまった。
 しかし一方で省略されたからこそ、2人の男の言語化不能の衝動を描いた物語として純化していく。結局のところ、“己の道”を達成できるかどうかのお話し。
 物語の前半では羽生丈二は周りから注目され、名声欲やプライドのために山に挑戦したい……というお話になっている。でも失敗と敗北を積み重ねて転落していく。もはや誰からも注目されず、山に登る意味もない。それでもなぜ登るのか? 名声欲やプライドを捨てたお話になっていったから、ただ“己の道”に進む男の物語として純化していった。それでも“己の道”を貫き通せるのか。言語化された動機を超えた心情を描いたからこそ、この物語は凄い。名作だと言える一本だ。
 こういう傑作が日本から生まれなかった……というのが私が抱いた“心残り”だった。


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