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読書感想文 シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感

この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。

 他人の不幸は蜜の味。

 「シャーデンフロイデ」とはどういった心理状態を指すのかというと、他人が失敗し、不幸のどん底に下ろされ、苦しんでいる様を見ているときに起きる喜びや幸福感のことである。社会的に成功している人ほど、喜びは大きくなる。シャーデンフロイデの大事な要件の中に、「自分が手を下すことなく」というものがある。自分が仕掛けたわけでもないし、関わってもいない。そのうえで、知らないところで勝手に失敗して転落したという話を聞いて、人は「いやっほおぉぉぉぉぉ! ざまぁぁぁぁぁぁ!」と思うのだ。
 人は「スロットマシンで大儲けした」という話よりも「スロットマシンに大金注ぎ込んだ挙句破産した」という話の方を喜んで聞くものだ。そんな浅ましい心象を、ほとんどの人間が持っているのだが、多くの人は自分がそんな心理を持っているとは認識できないし、知らせても「自分の中にはない」と認めようともしない。
 しかしネット時代の今、シャーデンフロイデは人々が深く知るべき心理状態の一つとなっている。なぜならば、大多数の人がネットで発言したがるのは、シャーデンフロイデが深く関連しているからだ。

 というわけで今回、ズバリ『シャーデンフロイデ』をタイトルに掲げた本を見つけてきたのだが、実際読んでみると、シャーデンフロイデについては思ったよりも掘り下げてくれていない。シャーデンフロイデという言葉を提唱したのが誰なのか、いつ頃から使われ始めたのか……そういったシャーデンフロイデそのものの情報が思ったほど少ない。基本的な情報はウィキペディアで充分というくらいだ。
 それよりも本書は、シャーデンフロイデのような心理状態がどういったメカニズムで発生するのか、シャーデンフロイデという視点で現代人の有り様について読み解こうとしている。

 まず最初に「オキシトシン」という脳内物質について解説される。
 オキシトシンが何であるかというと、この物質が分泌されるとストレスが低減され、心が安らぎ、自然治癒が高まる。オキシトシンが分泌されると他人に対しても優しく振る舞えるようになり、そればかりか臭いを通じて周囲の人々を安心させ、くつろいだ気持ちにさせる。
 まさに「母性」と「包容力」そのものを物質化したようなものこそオキシトシンだ。オキシトシンはもちろん女性のみではなく男性も分泌する。「包容力のある男性」はまさにオキシトシンの強い男性のことだ。
 自閉症の子供にオキシトシンを増強させる薬を投与すると、自閉症特有の利己的、排他的性格が弱くなり、社交的で思いやりのある子供になるという。
 いいところだらけに思えるオキシトシンだが、負の側面もある。オキシトシンが強いと愛情が強くなりすぎる。束縛と強制といった行動をとるようになり、よくいう「毒親」になりやすい傾向に陥ってしまう。
 オキシトシンは身内に対する共同意識や繋がりを強めるが、その一方で外部に対しては排他的にもなる。

 子供というのは、どんな子供でもある程度、利己的で排他的な性格を持っている。それは精神が未熟だから、社会性と共感性が欠けているからだ。子供が育っていく過程で、社会性と共感性が育っていき、「向社会的」な人間としての形が定まっていく。
 この向社会的人格を形成するのに役立つのがオキシトシンだ。人間の成熟と社会性を支えているのがオキシトシンだ。
 オキシトシンは社会性、共同体意識を作るのに役に立つが、これが強まっていくと、その社会内部に対する客観性、批評性を失ってしまう。どんな異常な状態に陥っても、「自分のコミュニティは正しいのだ」と思うようになる。カルト教団の信者が陥りがちな心理になってしまう。
 極端な例で話を進めるが、外部との接触が少ないオキシトシンにより結ばれた集団は、得てしてカルト教団的な状態に陥りやすい。

 一方、サイコパスと呼ばれる人間がいる。サイコパスはコミュニティが閉鎖的になっても、そこに影響されないタイプの人格のことだ。おかしいと思ったら遠慮なく言う。
 そういう「空気の読めない人間」がなぜいるのかと言うと、社会全体が危ない方向に向かい、盲目的になっているときに必要になるので、だから社会の中で空気読めない人間は一定数発生するようにできている。空気読めないサイコパスが不愉快だからといって排除してはならない理由がここにある。

 次に「サンクション」という心理状態について説明される。「サンクション」とは「自分こそは正しい」なのに周りで「ズルしている」あるいは「ズルしているかもしれない」奴が許せない。そういう奴に攻撃するのは正義だ――と考える心理状態のことだ。
 行動が真っ当な良心と正義から発せられたものならなんら問題はない。しかし「暴走した正義」ほど面倒なものはない。
 例えば(よくあることだが)町のどこかで大きな事故や事件が起きてニュース番組などが賑わっている時、Twitterなんかで「今日は楽しかった」なんて書き込むと「不謹慎だ!」と怒り出す人々が必ずいる。
 知っていると思うが、ごく一部ではなく、そういう人、いま非常に多い。
 私がTwitterをあまり書かなくなったのもこれで……「〇〇が起きているこの時に不謹慎だろ!」……そう言われても私なんかは普段からニュースなんてまるで見ない(興味が全くない)。ニュースショーが騒がしくしてたってまったく知らないことの方が多いのだが、「知らん」などと返したら大炎上不可避だ。だからはじめから何も書かないことが一番の安全と考えたわけだ。
 冷静で客観的な立場になってみれば、「不謹慎ツイート」の多くがニュースショーを騒がしている事件とはまったくの無関係だし、「不謹慎狩り」をする人々も言うまでもなく無関係な他人だ。まったくの無関係だけど「正義」という立場になり、「正義」という後ろ盾を持った人々が、自分の行動が正しいと思い込み、疑うことができない。それで「正義」という快感を得ようと行動してしまう。
 本書でも書かれているが、2017年6月、アオリ運転による危険運転致死傷害事件の例でも、被疑者は自分が悪いとはまったく思っていなかった。目の前に下手な運転をしている奴がいて、そいつは悪い奴だから、自分が正義の立場としてアオリ運転してやったんだ……そういう認識だった。相手が死亡して自分が逮捕される直前まで、自分が正義だと信じての行動だったそうだ。
 「悪を憎み正義を行う」――良いことのように聞こえるが、実はそこに大きな落とし穴がある。その落とし穴にはまる人は、いま非常に多い。

 本書の紹介はここまでだが、今の時代、シャーデンフロイデは大きな意味を持っている。少しでも優位に立っている人が許せない。少しでも得をしている人が許せない。お金を持っている人が許せない。美形に生まれた人が許せない。美人と結婚した人が許せない。……そういう人間に対する妬みと恨み。コンプレクスとルサンチマン。
 成功者たちがほんの少しでも隙を見せたら、その瞬間、猛然と噛みつく。何千何万というシャーデンフロイデがそこに集中する。「ざまみろ!」「くたばれ!」「スッとした!」……とあからさまに書きはしないが、そういう心理が透けて見えてしまう。
 そういったシャーデンフロイデをむき出しにする人たちの多くが、実は「全く無関係な人たち」だ。下手すると当事者について、昨日まで全く知らなかった……という場合もある。本来、発言する立場にもない人たちだ。
 本書には書かれていないことだが、日本人がこういう傾向を持ちがちなのは、可住面積が極端に小さいこの国土で、ずっと村社会の中で暮らしていたからこそ育て上げてしまった性質なのだろう。今こそ立派な国になっている日本だが、意識は相変わらず“ムラ”の意識のままだ。そのコミュニティの中で少しでも得している人が許せない。人よりも儲けを出している奴はズルしている奴だから罰したい……。
 それで自分が手を下すことなく罰が当たったら、嬉しくて仕方ない。村社会的意識が、シャーデンフロイデ的なものを感じやすい性格を作ったのではあるまいか。
 しかもその多くが“自分は正義の立場にいる”という設定の下で行われているというグロテスクさ。正義の立場にいるから、何を言っても構わないんだ。罪人にはいくらでも石を投げてもいいんだ。
 でも正義のつもりがいつの間にか浅ましいクズになっている。そうならぬよう、注意が必要だ。


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