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7月3日 物事は「場所」や「時間」や「着ているもの」を込みで記憶している……という話

 押井守監督がある時、こんな話をしていた。

「道場ってだいたい、例によって鏡があるわけだ。鏡稽古って言うんだけど、鏡稽古をやる意味と鏡を見ちゃいけない理由と両方あるんだけど、バレエとかと一緒でさ。道場って方向性がある。だいたい入って奥が正面なんだけど、正面が決まってるわけだよね。で、普段全員が型で動いている方向性は実は同じなわけ。たまにね、先生が面白がって90度変えて並ばせるの。面白いのこれが。途端にみんなバタつくんだよ(笑)」

「やっぱり道場の空間の中で覚えてるんだよ。旋回した時の感覚とかね、270度旋回とかやるとね、90度違った向きで始めた途端に思わずヨロッとかさ、「あ、次どっちだっけ?」とかさ。面白いもんだよね。場で覚えてるんだよ」

『身体のリアル』 247~248ページ

 押井守監督は知られているように空手をやっているわけだけど、型をやるとき、いつも道場に入って奥の壁に向かってやる。ところが90度向きを変えた途端、「あれ? なんだっけ?」となる。みんな「あれ? なんだっけ?」とグズグズになってしまう。
 着ているものでも感覚が変わってしまう。空手は稽古着でやるわけだけど、アニメ参考用にスタジオに呼ばれて、動きが見えやすいようにレオタードみたいな服を着て型をやってもらったら、ベテランでも型かできなくなっちゃう。空間もそうだけど、着ているものでも覚えている。
 空手道場にやって来たばかりの初心者は、ジャージなんかで始めるわけだけど、ジャージだとぜんぜん動きが身につかない。これが稽古着や袴なんかを着ると、急に身についてくる。着ているものでも身につく、身につかないが変わってくる。

 実は私は一時セラピストをやっていて(すぐに辞めたけど)、「場所が変わると感覚が変わる」というのを経験している。練習場ではバッチリ完璧にできていたけど、現場に出てくると急にグズグズになって「あれ? うまくいかない」となってひどく緊張してしまった。
 私はアニメーターもやっていたわけだけど、現場に出た時やっぱりしばらくグズグズになっていた。技術が初心者レベルに戻る……というわけではないけど、場所が変わると感覚が狂って、できるはずのものがうまくできなくなったりする。
 最初の1ヶ月か2ヶ月くらい役立たずの新人状態になって、それからジワジワと本領を発揮できるようになっていった……という感覚だった(私の場合、「場所に慣れるまで」が普通の人よりかかるらしい)。
 そういうわけで、どんなベテランも仕事場が変わっても以前のような技術をいつでも発揮できるか……というとそういうわけではない。一回「あれ? おかしいぞ?」という期間があって、それから本領が戻ってくる、という感じになるはずだ。

 絵描きのツールを変えてみて、どうしても実力が発揮できない、絵が初心者レベルに戻ってしまう……その理由は技術というものも空間とか着るもので記録されているものだから。ツールが変われば感覚が変わる、すると実力を発揮できない……というのは当然の話。慣れるまでの期間を作った方がいいかも知れない。

 どうやら人間は、「空間」や「着るもの」で物事を覚えてたり、感覚を身につけていたりするらしい。他にも「風景」や「匂い」や……いろんなものがあるでしょう。
 さて本題。
 電子書籍で本を読んだ場合と、紙で本を読んだ場合とで、記憶に残るのは紙の本の方だ……とよく言われる。これはなぜなのか、を考えるとこういうことだろう。人間はその本を持った感覚、ページの右の方とか左の方とか、これくらいページ数にアレが書いていたとか……そういうものを込みで記憶する。なんだったら「どこでその本を読んだか」ということまで紐付けて記憶している人もいるだろう(私も通勤途中のバスで読んだな……という記憶の仕方をしている)。
 私はよくブログに本の引用を持ってくるのだけど、目次は見ないで、本の全体ページを見ながら「だいたいこの辺の、右の方だった」という記憶の仕方をしている。まあ記憶が違っていることの方が多いんだけど。
 電子書籍になると頭に残らない理由は、たぶんここ。関連付ける情報や身体感覚がないから、記憶に残らない。
 人間はその情報そのもので記憶する……ということができないものなんだ。よっぽど頭のいい人ならできるかも知れないけど、ほとんどの人はできない。なにか記憶しようと思ったら、その情報そのものではなく、その周辺情報込みで記憶する。
 昔から言われている暗記法に、「物語にする」という手法がある。意味もなく羅列されている言葉を暗記する……というのはどんな人間にもできない。しかし簡単な物語の仕立てにするとスルッと頭に入ってくる。
 というか、「物語」にしないと人間は記憶できない。断片化した情報をそのままの形で記憶する……ということはどんな人間もできない。物語という形にしないと記憶にも印象にも残らない。どうして物語が時代や世代を経て残っていくのか……というと、人間が物語にしないと記憶できないから、ということに関係している。だから人間はいろんな出来事を物語にしてきたのだろう。
 だったらあらゆる教養は物語にしてしまえばいい。
 情報や技術は、空間や着ているものや風景や匂いといったものを込みで記憶されてるもの。物語はそういう周辺情報をその物語の中に作り出している……と考えられる。だから物語にすると記憶しやすい。それが物語の有用性で、昔の人々はその物語の有用性を理解していたのだろう。

 でも、頭のいい人ほどこういう話を理解できない。頭のいい人は断片化された情報でも頭に入れることができるから、記憶できない人の感覚を理解できない。教育の世界で決定権を持っているのは、そういう頭のいい人達だから、効率化と合理性優先で教科書は重いからタブレットにしてしまえばいいんだ……と考えてしまう。それでどうして教科書をタブレットに変えると学力が落ちるのかわからない。
 頭が良いから、逆にわからない。「合理的に考えたら正しいはずなのになぜ?」となってしまう。人間はもっと非合理的な感覚で物事を記憶しているものなんだ……ということに行く着くまでまだまだ時間はかかるだろう。

 いっそ教科書の内容をぜんぶひと連なりの物語にした漫画にしちゃうとかね。そっちのほうが頭に入りやすいかも知れない。
 でも「漫画なんてけしからん!」って言う人が社会的地位の高い人のなかに多いからなぁ……。


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