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3月1日 抽象化された表現とはなにか? どうして子供はファミコンの表現を理解できていたのか?

 ふと、ずいぶん前になにかのゲーム系雑誌で見かけたとあるコラムのことを思い出した。
 ゲーム映像がリアルになって何が良かったのか……というと、普段ゲームをやっていない人にも「何が起きているのか」見た目でわかるようになった……という。
 例えば昔のRPG。マップを歩いていると、ドーンと画面が切り替わってモンスターが登場する。
 これ、普段ゲームをやらない一般人にとって、何が起きているのかわからなかったんだって。
 でも映像がリアルになっていったゲームは、マップを歩いていると遠くからモンスターが近付いてきて、ごく近くまでやってくると戦闘になる。その戦闘も、キャラクターたちがモンスターに飛びついて攻撃する様子をアニメーションで説明してくれる。そういう場面を見て、「初めてRPGで何が起きているのか理解できた」……そういう人はわりといたらしい。

 このエピソードは大事なポイントをいくつも含んでいる。まず昔ながらのゲームは非常に抽象度の高い世界だった。「抽象度の高い世界」というのは色んなものが省略され、省略された中で派手さや文学性を表現する……という世界だった。その世界で何が起きているのか、考えて解釈しないとわからない世界だった。
 私たちはごく子供の頃からゲーム文化に接し、そこで何が起きているのか解釈する「勘」をかなり早い段階で身についた。私たちは特別勘が良かったから抽象化した世界観を解釈し、そこで起きているドラマを心で感じる……ということが自然にできた。
 でも後になってその当時、周り人々がゲームをどのように接していたか……と考えてみると、そういえばみんなあまり理解していなかったよな……。私の親もゲームの画面を見ても「なにをやっているのかわからない」とずっと言い続けていたなぁ。「こいつらはいったい何をやっているんだ?」っていつも言ってた。
 私たちの世代から「ゲーム文化」というものが始まって、社会に広がっていったのだけど、ファミコン時代の抽象化した表現をみんなが理解できていたのか……というと全然そんなことはなかった。子供は勘がいいものだから抽象化された表現を見てもピンと来るものだけど、大人は勘が鈍いから、解釈することができない。
 子供でもみんながみんな理解できていたかというと……そういうわけではない。子供の中でも「勘のいい子」と「勘の悪い子」という区別はあった。そういう意味で、早くから抽象化されたゲーム表現を理解していた私たちって、特別勘が良かったんだな。
 ほとんどの人が抽象化された表現を理解できるわけではない。そもそも抽象化された表現とはどういったものだったのか……それを今一度考えてみよう。

 こういうところで「わからない奴はダメなんだ!」とか精神論を持ちだしてくる人はダメ。なぜ理解できる人と理解できない人が出てくるのか。その理由を理屈立てて説明できなければ、実は自分も理解できていない……ということになる。理解できるなら説明もできるはず……という立場に立って考えなければならない。

 まず「抽象度」の考え方を示そう。
 抽象度の大雑把な概念図はこちら。

 抽象度が高いといろんなものが省略されてアニメ風になる。抽象度を下げていくとリアルに写実的になっていく。
 これだけ理解できていれば充分です。
 ではこの「抽象度が高い」状態とはどういう状態なのか。上の画像をよーく見てもらいたい。抽象度の高い絵というのはキャラクターの細かな皺が省略され、光と影も省略されて、シンプルな2段階影のみとなっている。抽象度が高い状態というのは、本来そこにあるべきディテールが省略されている状態だといえる。

 こちらは「CEDEC2020」において任天堂が発表した画像。
 元ネタはこちら

IGNJapan→『あつまれ どうぶつの森』の草地が未だに立体的でない理由とは? 情報量を捨てることの意義について

 『どうぶつの森』シリーズの「草原」は不思議な文様が描かれているが、あれは「草むら」や「落ち葉」といったものを記号化したものだった。
 もちろん、今どきのゲームなのでリアルに表現することはできる。しかしそうすると、「草地」とゲーム的ギミックのある「雑草」との区別できなくなり、するとゲーム的なわかりやすさと面白さが損なわれてしまう。
 それにがっつり描き込んでしまうと、ユーザー側の「想像力の余地」がなくなってしまう。任天堂アートチームにとって大事なのは「想像のスキマ」。あえてスキマを作る。そのスキマにこそ、遊び手の想像を込める余地がある。
 想像力の余地がある……というのは重要な要件で、抽象度が高いからこそ、現実ではあり得ない、不思議な表現が可能になる。
 例えば次のような作品。

 ご存じ『アンパンマン』は非常に抽象度の高い世界である。なにしろ頭があんパンになっている男が登場し、お腹をすかせている子供がいたら自分の頭を食べさせてしまう。しかもそのお腹をすかせている子供というのが、ことごとく動物の頭をしている……冷静になって考えるまでもなく、かなりシュールな世界観である。
 これこそ「抽象度が高い表現」の特権。
 想像してみよう。『アンパンマン』を抽象度の低い世界観に持ってきたらどうなるか。このシュールさに、作品自体が耐えられなくなり崩壊してしまう。『アンパンマン』はこの抽象度の状態でなければ、成立し得ないものなのだ。
 抽象度が高い……という状態は、実はかなりの「表現の自由度」が許される。例えば人間が空を飛び、「かめはめ波!」と手から光線を出すような表現は、リアルな表現の中では成立し得ない。やろうとしてもただただシュールで説得力のない映像になる。抽象度が高いからこそ、「かめはめ波」とやって手から光線が出るという表現を受容することができる。
 抽象度が高いと現実ではあり得ない表現や組み合わせが可能になっていく。作り手にとって想像力が刺激されるのは抽象度の高い表現の方だ。しかしここに「創作のジレンマ」が現れてくる。抽象度の高い表現は得てして「説得力」に欠く。抽象度の高いままの創作物を大人に見せるとどうなるか……だいたい相手にされない。物語にあまり馴染みのない人が見ると、だいたいにおいて「幼稚だ」と見なされてしまう。
 でも面白いのは抽象度の高い表現のほう。そこで抽象度を下げて、リアルにしていかねばならないが、リアルにしすぎると表現の自由度を喪う。『アンパンマン』のような作品をリアルに表現するとあっという間に作品が決壊する。その作品のコンセプトが決壊しない範囲でのリアリティが必要となる。それがどこまでOKなのか……そのギリギリのラインを考えながら表現しなければならないのが作家の務めだ。

 次のポイントだけど、どうやら人間は、「年代」によって抽象度の受け取り方が変化する。
 ごく幼い頃だと、『アンパンマン』のような抽象度の高い世界観をとくに疑問を感じることなく、するっと受け入れることができる。
 しかしある程度年齢が高くなってくると『アンパンマン』のような世界観が受け入れがたくなってくる。「頭があんパンの男が出てくるなんて、おかしいのではないか」と考えるようになってくる。これはどういうことかというと、その人の意識が変化したから。年代によって抽象度の受け取り方が変わっていき、徐々に抽象度の低いもの、つまり「リアルなもの」を好むようになっていく。
 私たち日本人は子供時代にだいたい『アンパンマン』を見ているから、『アンパンマン』という作品のシュールさに疑問を持たないが、海外の大人に見せるとだいたいショックを受ける。「なんだこれは! カリバニズムじゃないか!」……よく言われる。子供は抽象度の高い世界観を解釈できるが、大人になるとできない……という一つの例である。
(逆に、海外で読まれている児童書を日本に持ってきて大人に読ませてもだいたい理解できない。児童書は子供の段階で読まなければならないのだ。私は初めて『機関車トーマス』を見たとき、「な、なんだこれは!」とビックリした記憶がある。つまりそういうこと)
 年齢が上がっていくと、物事の認識の仕方が変わる。だから作品に求める抽象度も変わっていって、大人になるとリアルな世界観を背景にした物語しか受け付けなくなっていく。
 ここで気付くのだけど、人間は自分がいまどの抽象度の段階にいるか、自覚することはできない。自分の受容可能な抽象度のポイントは今ここ……というポイントが存在する。しかしそういうポイントが日々少しずつ変化している……ということに気付くことはできない。このポイントが上がってしまうと、それより下の抽象度で表現されたものを解釈できなくなってしまう。
 だから大人になると子供の頃に見ていた漫画の面白さを理解できなくなっていく。大人の目線で見ると、子供の読み物は理屈が合わない、論理的に考えておかしい……という表現が当たり前のように出てくるからだ。
 逆に子供は大人が見ているようなものは理解できない。大人の読み物は様々な知識、教養があることを前提にする。作品の外にある文化や社会を理解していないと、万全に楽しむことができない。
 どうしてこういう状況が起きるのかというと、「受容可能なポイント」がじわじわ動いていて、その本人は「受容可能なポイント」が動いていることに気付けない。自分の受容可能なポイントが動いていることに気付かず、理解できないのは作品の良し悪しという「品質の問題」だと思い込む。これが大きな勘違いだが、勘違いにすら気付くことができない。

 ではどうして私たちはファミコン時代のゲーム表現を理解することができたのか。それは私たちが子供だったからだ。子供であるから抽象度の高い世界観をするっと理解できる。それだけの話だった。
 これは子供の認知能力に関係してくる話で、子供に絵を書かせると、だいたい地面を線1本で表現し、人間、木、太陽……を平面的に描く。子供がどうしてそういうふうに絵を描きがちなのかというと、子供がそのように世界を認識しているからだ。
 ファミコンくらいの表現は、むしろそういう子供の認識能力に寄り添っている。むしろ子供にとって理解しやすいのがファミコンの表現だった。
 逆にゲームが最初からリアルな表現を獲得していたら、私たち子供はそこまで夢中になっていなかっただろう。
 大人になると物事の認識の仕方が変わるから、抽象度の高い表現は次第に理解できなくなる。しかもゲームは昔からあるものではなく、ある日突然変異的に出現したもの。だから大人達は「理解不能のものに子供たちが夢中になっている」と思い込んで警戒する。自分たちの子供時代になかったものだから、そういう警戒心をもたれてしまった。
(『アンパンマン』を知らない海外の大人に読ませると仰天するのと同じ理屈だ)
 でも子供の全員がファミコン時代のゲーム表現を理解できたわけではない。中にはどうしてRPGマップを歩いていたらドーンとモンスターが出てくるのか……この表現がいったいどういうシチュエーションを現しているのか理解できない子供も一杯いた。
 そういう理解できていない子供は次第にゲームをやらなくなっていく。で、そのまま大人の表現を理解していくようになるのか……というとだいたいの人は理解できないまま。以前に「趣味を持つことは文化を持つこと」と書いたけれども、それと同じでそれきりなんの文化を持つことができず、そのことに疑問を持たないまま……という人もわりといる。
 どうして理解できる子供と理解できない子供という差が生まれたのか。
 これは少し抽象的な論理になるが、ある意味の「心がけ」の差ではないかと考えられる。私たちはゲーム表現が早くから「省略されたもの」という認識があって、脳内でその省略されていたものを「展開」していた。私は子供の頃、RPGをやっていた時、そこに雄大で果てしない草原が広がっているところをイメージしていて、目の前の森の影からモンスターが出現した……という映像的イメージを頭に思い浮かべていた。これが「省略」した表現を脳内で「展開」していた状態。
 ところが誰もがこういう想像力をもっていたわけではなかった。たぶん、そこまで頭の中でイメージ変換しながらゲームをやっていた子供は少数派だったのではないか。たぶん、大半の子供にはそういうイメージはなく、「単にそういうルール付けされた遊び」という理解だったんじゃないか。一緒に遊んでいるようで実は理解していなかった……きっとそういう子供は多かっただろう。

ゲームボーイ時代の『ポケモン』と最新作『ポケモン』の比較。ゲームの進化は、抽象度の変化だった……という言い方もできる。

 というわけで、子供向けの知育玩具を与えれば自動的に子供の想像力が育つ……というわけではない。そんなに簡単なものではない。子供自身が抽象化された表現から、なにをイメージしているのか。その感覚を持つことが大事だが、それは大人の側から促してやるということはほとんどできない。子供が勝手に夢中になる……ということが第一だが、子供がどういったものから、そういうイメージを展開させるかはわからない。
 それに大人は、自分の子供時代にないものを子供が夢中になっていると、それだけで本能的な警戒感を持ち、それを子供から引き剥がしたいという欲求に逆らえなくなる。大人になると無条件に理性が発達する……というわけではない。大人は、世間的に良いとされている知育玩具だけを与えることに満足してしまう。それが実際に効果があるかどうか知らずに。
 私たちの場合、そういう想像力の源泉がたまたまファミコンだった。しかし大人達はファミコンがなんなのか自分で解釈できないから、ひたすらに警戒し、忌避しつづけた。

 とにかくも私は子供時代からファミコンというものが側にあったから、自然と抽象度の高い表現を「解読」する能力が身についた。ファミコンを遊ぶ過程でこの能力はかなり磨かれていったように感じられる。

 通常ならば、大人になるにつれて抽象度のポイントは低い方へ移動していく。そのまま抽象度の高い表現は理解できなくなる。しかし私のような人間は、ファミコンをはじめ、いろんな遊びをやっていたから、今でも幅広くいろんな表現を読み解く能力が身についている。抽象度が変化していても、自分の感覚をすぐに調整して、その作品を楽しむことができる。こういう感覚が身についたのは、私の場合はゲームで遊んでいたからだろう。

 そこで気になるのは、いま時代の子供たち。いま時代の子供は最初からフォトリアルなゲームが側にあって、そういうものでしか遊んでいない。こちらから進んで解釈したり、イメージの展開をする必要のないものしか接していない。それは「想像力を育む」という教育的なものとして良いのだろうか。
 ……と思ったが、そういえば『どうぶつの森』のような抽象度の高いゲームは大人気だし、子供に一番人気のゲームといえば『Minecraft』だ。決して『The Last of Us』ではない。
 ということは、私のようなおじさんが心配することもなく、子供は相変わらずいま時代の抽象度の高い遊びを見付けて、抽象化されたイメージから壮大なイメージを展開する……という遊びをやっているのだ。
 きっとそういうものを夢中になっている子供たちの中から、未来のクリエイターが生まれるはずだ。

 最後にどうしてこういう話をしたのか……というと、こういう話、ほとんどの人はそもそも気付いてすらいないから。創作の表現には「抽象度」という概念があって、抽象度が高い作品の中にも良し悪しがある。しかし「抽象度」の概念はほとんどの人は理解できていない。特に知的階層の高い人ほど、抽象度の概念に気付いていない。だから知的エリート達は抽象度の高い表現を理解できない。「幼稚だ」と決めつけて、それ以上それがどういうものか考えようとしない。抽象度の低い表現が「高級」で、高い表現は「低級」だ……という考え方が一般層から知的エリートまで共有された考え方になっている。しかし実際はそうではない。
 例えば最近公開された映画『スーパーマリオブラザーズ』だ。あの映画では一般観客と批評家の間で、評価の大きな隔たりが生じてしまった。それななぜなのか、というと知的エリートは抽象度の概念を知らず、抽象度のダイヤルをそこに合わせて作品と向き合う……ということができないからだ。この話はきっと『スーパーマリオブラザーズ』の映画感想の時にするだろうと思うので、またその時にしよう。
 とにかくも言いたかったのは、抽象度の高い表現の中でも「上級」のものは存在する。そういうものはどういうわけか、アートと見なされない。いつも「子供向け商業作品」という扱いにされる。それは抽象度の高い表現を理解できるのは現在進行形で子供だけだからだ……というのもあるのだが。
 だが作品を見て評価する側としては、「抽象度の高い表現はすべてダメ」ではなく、抽象度の高い表現の中にも優れたものがある。その発想がなければ漫画は理解できない。漫画はまさに、抽象度をコントロールするメディアだからだ。抽象度を理解できていない人には漫画は永久に理解できないだろう。


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