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2021年3月のご挨拶

 みなさんこんにちわ。
 とらつぐみです。
 コンゴトモヨロシク・・・。

 まあこのブログを読んでいる大多数の人は、とらつぐみという人物は100キロ越の巨漢デブだと思っているんだろうなぁ……。オンラインゲームを延々やり続けて昼夜逆転生活を送り、本などは全く読まず、運動など一切やったことがなく、好きなことになるとやたらと早口になるが語韻力はない……と思っているんだろうなぁ。

 どうしてそう思われているかというと、社会がそういうキャラクターを期待しているから。
 そういうタイプの人間だと思われ続けているので、もはや今さら気にしないです。他人にどのように思われているか……ということすら気にならなくなった。というか世の中のことがどーでもよくなってきちゃった。

 でも、なぜ大多数の人はそういうふうに考えてしまうのか?
 これを考えてみよう。

 前にブログで「ダンパー数」という概念を紹介したと思うけど、簡単におさらいすると、人間が名前と顔とプロフィールを一致させて認識できる数は150人くらいが限界……という概念。これを越えると、あとの人々は「なんだかわからない人」になってしまう。
 それでどうやって私たちは「私たち」というコミュニティを維持していったのかというと、「同胞」の概念。同じグループの同胞、同じ村の同胞、同じ街の同胞、同じ国の同胞……。相手の名前とか顔も知らないけど、グループという概念があるから結びついていられる。その概念の根拠になったのが神話であったり、宗教であったりした。
 ではこの同胞意識から外れる他人をどのように認識するのか? それは例外なく「敵」と認識する。これは私たちの本能に基づく反応なんだわ。「あいつは自分のグループではない……じゃあ敵だ! 排除だ!」って。殺伐としてんねぇ。これが人間の認知能力がもたらす限界。私たちの認知能力は、自分で思っている以上に雑でいい加減なんだ。

 今時は暴力や殺人は犯罪だから表立ってこれを口にする人はなかなかいないけど、相手が死ぬまでネット上で攻撃することをやめられない……という人は非常に多い。どうしてやめられないのか、それで事件が起きたら裁判になることくらいわかっているのに、それでもやめられないのはなぜか。それは本能行動だからだ。本能であるから、自分で止めることができない。
 その相手がどういう人間か知らないし、何かしら危害を受けたわけじゃないけど、ネットで「祭」が起きているのを見ると、とりあえず自分も参加しに行く。自分が攻撃に加わる意味もないのに。でも多くの人がこれをやめられないのは、本能だから。
 この場合は、ネットの祭というコミュニティに参加しないことのほうに危機意識を抱いてしまう。これも本能行動。

 およそ100年ほど前、ナショナリズムという概念が生まれて、人々は世界戦争に駆り立てられたのだけど、結局のどころ、普通の人々に「国家」という認識は大きかった。ほとんどの人は国家という概念を受け入れられず、そこからグループの概念を縮小化していった。同じ地域出身であるとか、同じ年代生まれであるとか、同じ学校出身であるとか……。次第に次第にグループ概念は縮小化していって、最近の世の中を見ると、同じ趣味嗜好のグループが一番強い結びつきを作るようになっていった(「国家」という大きな概念を積極的に破壊してきたのは、言うまでもなく戦後世代――団塊世代だ)。
 今時「国家」なんてものを真面目に言ってる奴なんていない。同じ国出身だからといっても、だいたいは「ふーん」くらいの感じだ。別にそれを切っ掛けに仲良くなったりはしない。ネットで「右翼」やっている人々も、少しでも自分たちと違う意見を口にしたら「売国奴だ!」と大騒ぎするんだもの。右翼を自称している人間ですら、「小さなグループ」概念しか持ち得てないんだよね。
 そのグループから外れる人々、というのはもう「なんだかわからない奴ら……つまり敵だ!」という発想になっちゃうんだよね。

 私みたいな人はいつもそういうグループの概念から外されてきた。ずーっと友達はいないし、ずーっと孤独。どこかの社会に加わりたいと思っていた時もあった。今じゃそれすら考えなくなってきた。めんどくせーが勝ってしまった。
 私みたいなグループから外されているような人間に対して、人々はどう考えるか。そのグループの中で思わしくないイメージをそこに当てはめる。それは何なのかというと、その時代における「怪物」のイメージなんだよね。一般的に考えている「オタク」のイメージって、あれは現代人のイメージする「怪物」なんだ。かつては魑魅魍魎の怪物のイメージだったけど、幽霊も妖怪も信じていない現代人は「オタク」こそを「怪物」のイメージとして猛烈に恐れている。だからよくわからない誰かを見ると、そこに「怪物」のイメージを当てはめて、攻撃し、そして安心する。私みたいな引きニートをネットで見かけると、とりあえず「あいつは100キロ巨漢デブなんだろうなー」と考える。
 この怪物のイメージが誰がどのように創造したのか? それはマスコミ。マスコミの前に都市伝説が前景としてあるのだけど。そのイメージを拡散し、強固にしていったのがマスコミ。みんなマスコミに対してもっと怒ったほうが良いよ。私たちの色んな思考はマスコミが作ったわけだから。

 そういうわけで私は最近世の中で言っているダイバーシティだのLGBTQだのというのはまるっきり信用していない。どーせ私なんかはああいうのから外すんでしょ? 多様性の埒外の人間。「あいつは犯罪者予備軍だから」ってさ。「犯罪者予備軍」という前提だから同情しない。「印象」でしか語られることはない。別に気にしないけど。「多様性」なんてクソみたいなもんだよ。そんなの実現するなんざ思ってないもの。人間の本能に反するから。どっちにしろ、私、「多様性」云々言っている人たちから排除されてますし。

 どうしてこういう話を始めたかというと、これをお話の中に落とし込めるな……という思いつきがあって。前からちらっと考えていた、神様のお話を書こうかな……と考えていて、そこに使えるかな、と考えている。
 どうして神様なのかというと、神様は人々が思い描く姿そのものを反映するからだ。この構造を使えば、児童文学的な軽さを持ったまま、人間そのもののお話を書けるかな……とか考えている。宗教の話も、テロの話もその中に込められるかも知れない。
 ……それをいつ書くかはわかんないけど。まだ今年中に書かなくちゃいけない予定の作品が9本もあるので、まずはそっちから書き上げなくちゃ。

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