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6月×日 世界の戦争を終わらせる方法――それは世界中の人が腹一杯食べられるようになること

 本当は6月に書いていたものだけど……発表は10月になってしまった。

 ここ何ヶ月か食をテーマにした本を読んでいて、唐突に思いついたことがある。それは「世界の戦争を終わらせる方法」だ。
 その方法は実にシンプルだ。世界中の人々が悩むことなく腹一杯食べられるようになったら、すべての戦争は終わらせられる。

 どうしてそう考えたのか……という話をしよう。
 まず、そもそも私たちはどうして仕事なんかするのか。どうして嫌な思いをして働く必要があるのか。それは自分が食べるためであり、あるいは家族や同居人を食べさせるためである。私たちは「食べていくため」に仕方なく働いている。
 どうしてより良い仕事を見付け、大きな冨を欲しがるのか……というと食べられなくなるかもしれない、という悩みを解消するためだ。財産や冨を築くようになると、大抵の人は身の丈に合わない高級品を身にまとい、自分が冨を持っていることをアピールしたり、冨を獲得できていない人を見下したりするようになる。なぜそんな行動を取るのかというと、そうすることによって冨を獲得したことを自分で確認ができるからだ。しかしそういうときに、収穫物や札束を身にまとうわけにはいかないから、その文化観でもっとも価値のあるものを身にまとう。狩猟採取民だったらそれが宝貝や羽根飾りだったりするわけだが、現代人は宝石を身につけたり、ブランドものの服やバッグ、高級車ということになる。
 戦争が起きる理由も、食べ物が大きく関係している。土地の所有権とか文化の問題とかいろいろあるのだけど、要約すると食糧問題だ。どうして土地や狩り場や漁場を取り合って戦争をするのかというと、それを取られると将来的に国民が飢える可能性があるからだ。だから一国の宰相となった人は絶対に土地を手放さないし、必要がある場合は他国の土地を奪おうとする。

 アイヌ文化にまつわる本を読んでいた時、時々「野盗集団」に関する話が出てきた。アイヌの野盗はどういった人々がなるのだろうか。気性の荒い犯罪者気質の人々が集まって盗賊になるのだろうか?
 そうではない。食糧の確保に失敗した人たちが野盗になる。
 狩りや農耕に失敗した。食べ物がない。このままではみんな飢え死にするぞ……こういう時、野盗集団が生まれる。というわけでアイヌで野盗になってしまう人たちは、もともとそういう行為を生業にしていた人ではない。切羽詰まった事態があって、やむなく……が切っ掛けであることが多かった。

こちらは映画『キャプテン・フィリップス』のいち場面。映画の作り物なので、背景はセット、人物は俳優だが、出来が良いのでなんともいえないリアリティがある。

 映画『キャプテン・フィリップス』は実話を元にした作品で、ソマリアの海賊達が出てくる。この物語に出てくる海賊たちは、海賊そのものを本業にしている人達ではない。ごく普通の漁村の若者達である。
 しかしソマリアは政情不安の国で、まっとうな産業などない。働こうにも働く場所などないし、働く場所がなければお金もない。お金がないから食べ物もない。すると若者は一日中なにもすることがなく、ぼんやりしている。きっと明日食べるものはどうしようか……もっと稼げる方法はないのだろうか……と考えて鬱屈していることだろう。
 そこで村に武装した危ない人たちがやってきて「海賊をやるぞ!」と若者達に声をかける。すると若者達はみんな「俺を連れて行ってくれ!」と集まってくる。
 どうして若者達が集まるのかというと、海賊に成功すれば莫大なお金が入るからだ。そういう成功体験話をみんな知っているから、一攫千金を求めて、貧困からの脱出のチャンスだと思って海賊に行きたがる。
 この映画では、そうやって選ばれた若者達……というのが20~16歳の若者というかまだ少年。しかも最初に「海賊をやるぞ!」と指揮した大人は後ろから指示を出すだけで現場にやってこないし、問題が起きたら一番に逃走する。ほとんど闇バイト状態だが、それを知りながら若者達は危ない行為に手を染めようとしている。そうしなければならない切迫した状況がソマリアの若者達にある。

 でももしも彼らソマリアの若者達が、食べることに苦労したり、悩んだりしなかったら、海賊なんて危ないこともしなかったんじゃないだろうか。彼らにまっとうな仕事があって、それなりの給料をもらっていて、食べることに苦労しない状況だったら、彼らはむしろ犯罪行為から遠ざかるのではないだろうか。
 AKライフルを持ってコンテナ船に乗り込むなんて、好きでやっているとは思えない。やらないでいいような状況があれば、やらないのではないだろうか。

 思い返せば、人類の歴史はいかに食べ物を獲得するか……この試行錯誤の歴史だった。

 話を人類史という面から見ていこう。
 今から1万2000年前、人類は農耕を発見した。東では稲を、西では小麦を発見する。稲も小麦も、もともとの野生状態ではどうやらさほど実は付けないものだったらしい。しかし植物は環境的な異常を察知すると、「多く子孫を残さねば」と考え、普段より多く実を付けることがある。1万2000年前、すでに氷河期は終了していたが、しかし「寒の戻り期(ヤンガー・ドリアス期)」というものがやってきて、この時期に作物の祖先は多く実を付けて、それを人類が発見した……と考えられている。
 でもそもそもどうして人類は農耕などを始めたのか? この答えは非常にシンプルだ。農耕を始めれば多くの食糧を確保できる。しかも毎年、一定量の食料が得られることが保証される。
 その以前の狩猟採取の生活では、常に「来月、来年も無事に食料を得られるだろうか」という不安の連続だった。
 原始的な道具による狩りは非常に難しい。狩猟採取民のハンターはかなり理性的で、獣の痕跡を見付けて、自分の匂いを察知させないように風上にポジションを取り、獣を見付け……その後、ハンターは不思議な行動を取る。狩猟採取民のハンターは不思議なことに占いセットを持っており、狩りの前に骨のかけらなどを振って、良い目が出るまでえんえん繰り返す。良い目が出ると、やっと「よし、狩るぞ」と覚悟を決めて武器を身構えるのである。要するに「願掛け」というやつだけど、難しい狩りをどうしても成功させたいから、追い詰めるところまでとことん理詰めでやっていき、最後の最後で運を天に任せるのである。それくらいに狩猟は成功するかどうかわからないものだった。

 基本的に「食料」というものは「自然」と取引することで得られる。現代は高度な文明を築いて食料生産の場が見えなくなってしまっているが、そんな時代であっても相変わらず人類は食べることに関しては自然と取引をしなければならない。食料を研究室で培養……なんてことはいまだにできていない。
 狩猟採取民の時代は森から得られる食料の絶対数は決まっていた。狩猟採取民もそれはよく承知していたから、もしもそれ以上に人口が増えそうな気配があった時、彼らは子供を殺していた。「この子供はみんなの足手まといになるな」「この子供は他の子より知恵が遅れているな」……と判断されたら容赦なく殺していた。どうやら狩猟採取民の世界では子供を殺すことに「後ろめたさ」のような感情もなく、「それはそういうもの」という考えだったらしい。
 狩猟採取民の世界は実は意外と優勢主義に基づいていて、優秀な子供ばかり選別されていたから、狩猟採取民たちは実はかなり頭が良かった……と考えられている。その後の農耕の時代に入ると子供を殺す必要はなくなったし、それどころかより多く収獲を得るために人数が必要となり、すると「ダメな子」「頭の悪い子」「素行の悪い子」も生き残れるようになり、ここで人類の劣化は始まったとされている。……本当かどうかわからないが。

 ではもしも自然が供給する食糧以上に人間が増えてしまったらどうなるのか? これはジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』に描かれている。
 人間の数や文明のスケールは、人類が自然からどれだけ《恩恵》を引き出せるかに関わっている。もしも自然が非常に豊かで、人間の側が「もっと人を増やしてもいい」と判断したら、どこまでも増えていく。この時、危ないのが「人が無制限に増えてしまう」ことだ。もしも自然が供給できる食糧以上に人が増えてしまった場合、その文明は突如崩壊する。こういう時の崩壊は「人が1人1人」……ではなく、数百人、数千人がバタバタと倒れて死んでいく。そうやってカタストロフを迎え、遺跡だけを残して消えていった文明が地球上にはあちこち残されている。小さな文明だと遺跡すら残さない。そうやって何度も失敗を重ねて、どうにかこうにかで生き残ったのが私たちだ。

 『文明崩壊』にいくつもの例が載せられていて、どれも興味深いのだが、2つピックアップしよう。1つ目はイースター島の顛末だ。
 イースター島はポリネシアの十数人の若者が舟に乗って移動し、発見した島である。イースター島の人々が残した木片や食べたネズミの骨から炭素年代法で測定したところ、おそらく西暦900年頃に入植したと推定されている。
 イースター島を発見した時、若者達は狂喜乱舞した。なぜならそこには島一杯に木が生えていたからだ。その時代のイースター島は亜熱帯性雨林で、年中雨が多く、島一杯に木が茂っていた。鳥などの動物も一杯いた。つまり“食料源”が山のようにあるように思えた。若者達はきっと「天国を発見した」と思っただろう。
 その自然を背景に、イースター島の人々は増え……増えすぎてしまった。放射性炭素測定で測定したところ、推定1400年頃にはイースター島からヤシの木が消滅した。島にいた鳥たちは一斉に逃げ出し、別の島へと移ってしまった。この時点でイースター島の人々は「鳥」という食料源を喪っている。
 それ以降は草や芝を燃料にしていたが、それも1500年頃にはすべて使い切ってしまった。イースター島から完全に「植物」が消えてしまった。すると気候も変化し、砂漠地方のように雨が降らなくなった。
 どうしてそうなったのか? それはイースター島の自然がものすごく時間をかけてようやく形成されたものだったからだ。入植者はそれに気付かなかった。他の島のように、森を破壊しても10年ほどで再生するのだと思ったら……再生しなかった。気候的にそれ以上に時間を要するのに、それに気付かず自然を消費し、人口を増やしてしまった。
 自然が供給する食料以上に人を増やしてしまった。気付いた時にはもう遅い。イースター島は崩壊に向けて真っ逆さまに転落していく。
 イースター島のような島で「木」がなくなるとどうなるのか? まず何かを燃やして「煮炊き」ができなくなる。次に島だから食料確保はもっぱら漁ということになるのだが、木がなくなると舟を作れなくなる。海の幸を目の前にして、それを取りに行くということができなくなってしまう。さらに周囲は島影なしの絶海の孤島だから、どこかへ救援を求めに行く……ということもできない。
 天国は海に取り囲まれた地獄に変わった。
 最終的にイースター島の人々は蛋白源を得るためにどうしたかというと人食だった。「人を食う」という最終手段でどうにか生きのびていった。火が使えないから「生」でだ。もちろん、人間のみを食べていたわけではない。ネズミ、ニワトリ、それからたぶん浅瀬の魚なども食べていた。それでもどうしても足りない……という時は人食だった。
 1722年4月5日(イースターの日)、オランダの探検家ロックフェーンは太平洋を航海中、不思議な島を発見する。四方陸のない只中に、ぽつんと砂ばかりになっている島がある。とりあえず行って船を休ませよう……と立ち寄るとなんと驚くことにその「砂の島」に人が住んでいた。イースター島の人々は食糧確保の手段がほとんどないような状況に陥ってから200年も生きのびていたのだった。
 18世紀、はじめて文明人に発見されたイースター島だが、彼らの受難は終わりではなかった。西洋人がやって来たことによって天然痘が広まり、西洋人は「ちょうどいい労働者を見付けた」とばかりに島民を誘拐し、文字通り死ぬまで働かせた。それでもイースター島の人々はかろうじて絶滅を免れて現在も生きている。

 次の話はルワンダである。
 1994年にルワンダで起きた大虐殺の悲劇は、『ホテル・ルワンダ』『ルワンダの涙』と2度にわたって映画化したためによく知られる。大虐殺は1997年4月7日に始まり、100日の間に107万1000人が死んだ。ちなみに当時のルワンダ国民は推定730万人である。1時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害された計算になる。
 ルワンダの大虐殺は1950年以降に起きた大量虐殺のなかで7番目に多い死者数である。人口比で計算すると4番目に多い。
 一般的にルワンダの虐殺はイデオロギー的対立が高まって、ある時フツ族がツチ族を襲った……ということになっていて、学校のテストであればこれで正解であるが、背景にあるのはそれがすべてではなかった。

 当時のルワンダはアフリカの中で深刻な人口爆発を抱えていた。アフリカの中でも3番目に多い人口密度である。
 人口が極端に多くなると、次に起きる問題が「食料」である。人口の多さに対し、食糧供給ができない問題に直面し、政府は国立公園の耕作可能な土地も開放したのだけど、それでも足りなかった。山の木をまるごと切り倒して畑にするということもあったが、すると山の保水力が失われ、台風の到来とともに畑が地滑りで消滅するというような事態も起きていた。森を破壊して畑を作ったから砂漠化が進行し、自然の川が干上がっていく。すると次第に雨が降らなくなり、雨が降らないと作物が実らないというスパイラルが起きてくる。
 こういった状態になると、食糧問題の前に起きるのが若者の非婚化。そもそも土地がないのだから、独り立ちして農地を持つ……ということができない。農地もないような男は結婚できない。
 独り立ちできず、社会の中でアイデンティティを確立することができない……。そこで鬱屈を抱え続けることになる。そういう人間が数万、数十万人になってくると、どんな社会問題を抱えるか。
 具体的な数字を出すと、結婚せず親元で暮らし続ける割合が、1988~1993年の間に、男性で71%から100%に増えた。女性はやや落ち着いていて39%~69%。つまり、男性は1993年以降、誰1人親元から自立できない状態になってしまった。
 それくらいの土地不足問題が起きていて、その次にやってくるのが食糧問題だ。
 イギリスの経済学者兼人口統計学者であるトマス・マルサスは「人口の増加は幾何級数的に進むのに対し、食料生産量は算術級数的にしか増えない」という。例えば人口が2倍になるまでのだいたい35年ほどの時間を要する。もしも環境的な問題が解消されていた場合、100人の人口は35年の間に200人となり、次の35年の間に400人となる。
 人口はかけ算で増えていくが、食料生産は足し算でしか増えない。画期的な新技術で小麦の収穫率が25%増え、さらなる大発見で25%増える……という感じだ。
 人数が増えれば食料生産もドンと増えるわけではない。しかもルワンダの場合は土地一杯まで耕作地に変えて対応したのに、それでも食料が足りないという状況が起きていた。
 親元にいるからといっても、ルワンダ国民のすべてが満足に食にありつけていたわけではなく、慢性的な飢餓と栄養不足状態に陥っていた。1990年代の調査では、必要カロリーの77%ほどしか摂れていない人が40%もいたとされる。
 ルワンダ国民の人口が急速に増えた理由は、食料生産量や衛生状態が改善され、マラリアなどの風土病も抑制され、さらに乳幼児の死亡率が減ったから……とされている。様々な理由で人口が一気に増えていった。
 こうした国にありがちなこととして、母親は子供をたくさん産む。これは出産してもそのうちの何人かは死亡する……という背景があったからだ。10人産んだとしても育つのは2人とか3人とかよくある話だった(多産な文化だとこれくらいはよくある)。それが急に衛生状態が改善されて乳幼児の死亡率も減った。そこで一気に人口爆発が起きる。
 社会環境が急に良くなっても、人間がそれに対応できるわけではない……という話だ。

 次に起きたのは「格差社会」だ。
 1990年代のルワンダでは、「持てる者」と「持たざる者」との格差が生まれていた。持てる者は土地を2.5エーカー持ち、持たざる者はわずか0.6エーカーの土地しか持てなかった。
  しかし1つの家族を支えるのに必要な農地は40エーカー(1エーカー=4047㎡ 40エーカー161874㎡)が必要だとされている。“裕福な家庭”であってもたったの2.5エーカーしか所有できなかった……ということでルワンダの深刻さを理解して欲しい。
 この裕福な土地を持てる者が5%から8%へ増え、小さな土地しか持てない者が36%から45%に増えた。どちらも増えたのは中間層が消えて、格差社会が生まれてきたからだ。
 さらに「世代間格差」も生まれた。50代以上は平均2エーカーの土地を所有できたが、20~29歳までの層は0.37エーカーしか持てなかった。急速な人口増加が起きたから、後から生まれてきた世代に与えられる土地がそもそもなかったのだ。

 将来の展望もなければ食べ物もない……。若者世代に、だんだんと空腹と絶望が膨れ上がっていく。仕事もない、金もない、食べ物もない……すると強盗をせざるを得なくなってくる。だんだん人口過密の中で犯罪が深刻化していく。
 こうした“生まれながらにの絶望”を抱えてきた若者が、次第にイデオロギー的な思想に結びついていく。そして1994年爆発が起きた――大虐殺だ。
 この大虐殺の内実を見ると、実はフツ族同士の殺し合いも多く起きていた。大虐殺という社会情勢は不均衡な社会情勢を解決するチャンスでもあったからだった。あるいは低い地位におかれた人々が“積年の恨みを晴らす”チャンスだった。

 もちろんルワンダの虐殺が起きた原因はここまでに書いた人口圧が主原因ではない。原因の一つだ。実際にはもっと複雑で様々な理由がある――つまり、理由は他にも一杯一杯あって、それが爆発したのだ。

 ルワンダの内実を見ると、アイヌの野盗と似たような内実が見て取れる。食糧確保の失敗→飢餓→生存するために他の村を襲撃……ルワンダでの事件はスケールが大きすぎるが、1人1人の問題に分割していくと、そういうことだろう。

 こちらの絵画は、ピーデル・ブリューゲルが1657年に描いた『怠け者の天国』という作品だ。
 画面中央にだらしなく倒れている3人は、聖職者、農民、兵士である。画面の下にはスプーンが差し込まれた卵が自ら食べられにやってきている。右側奥には丸焼けになったガチョウが自ら皿に横たわっている。その右隣にはナイフを刺した豚が走っている。画面左上には屋根に一杯のパイが載せられていて、その下で兵士が口を開けてパイが垂れてくるのを待っている。
 これは食料が豊富にありすぎて、人間が怠惰な状態になってしまった姿を描いている。例えば卵はキリスト教のシンボルで、それが食べかけ状態で放り出されているのは信仰の欠如を現している。豊富に食料がありすぎると、信仰もおざなりになってしまう……という姿を描いている。
 人間がどこまでも怠惰になっていく姿を描いているが――同時に願望も描かれている。これだけ一杯の食べ物があれば、働く必要もなくなり、こんなふうにベターッと倒れて太っていられる……。これが描かれた16世紀はまだ定期的に飢餓状態に陥る不安があった。だから描かれた作品だ。

 現代は「飽食の時代」と言われているが、実際には飢餓の不安をいまだに抱えていて、時に本当に飢餓状態に陥ったりもする。そういう不安があるから、私たちは仕事を持てなかったらどうしよう、充分な給料が得られなかったらどうしよう……といつも不安でいる。この不安がいつまでも解消されることはない。

 私たちはいつまでも「飢えるのではないか」という不安を抱え続ける。現代は「飽食の時代」と言われ続けているのに、人々はTwitterやInstagramで常に自分をアピールする……ということをやめられない。
 どうしてそうするのか、というと注目を集めていないと自分という価値がわからなくなるからだ。もし誰からも注目されない……という状態になると飢餓に陥るのではないか。その不安があるからいつまでも不毛なアピール合戦、不毛なマウント合戦をし続ける。

 もしもその不安が解消されてしまったらどうなるのか?
 すでに書いたように、人口増加が起きる。目の前に豊富な食料を生み出してくれそうな自然があると、人間は安心しきって幾何級数的に増えていく。すると今度はコントロール不能状態に陥る。国民1人1人に「生む数を抑制せよ」といっても効かない。「あなたは子供を生んでいいよ」「あなたはダメ」「一人っ子政策だ」といっても増え続ける。1人1人は全体の状態なんてわからないからだ。
 人口はコントロール不能でどんどん増えていき、やがて自然が供給できる食糧以上に増えた時……カタストロフが起きる。人が1人1人減っていく……ではなく文明そのものがバタンと倒れる。

 人類史というのは思うようにならないことの連続だった。
 1万2000年前、「農耕」という画期的な食糧確保の方法を思いついた後、人類はコントロール不能で人口を増やすことになってしまった。農耕によって毎年一定の食料は確実に得られるが、その農耕を支えるために労働者が多く必要となり、今度はその労働者を食べさせるためにどんどん農地を広めていかねばならず、これを繰り返しているうちに自然を消費し尽くしてカタストロフ……ということになる。
 ユヴァル・ノア・ハラリは「農耕革命は罠だ」と表現した。農耕を始めると、その畑を手入れするために多くの人間が必要になる。そこで多くの子供を産む。するとその子供たちを食べるために畑を拡張しなければならなくなる。それが何度も繰り返すと、やがてお隣さんの土地と干渉する。増えすぎた子供たちに食べさせるために、お隣さんの土地を手に入れなければならなくなる。すると「戦争だ!」ということになる。
 私たちが誤解しがちなことに「農耕民は性格が穏やか」というものがある。しかし実際には狩猟採取民はほとんど戦争をしなかった。戦争をする理由がなかったからだ。人類は頻繁に戦争をするようになったのは、農耕を始めてからだ。実は農耕民が好戦的で、戦いに勝てる者達がその後も生き残っていった。
 こうやって食べるために自然を破壊し、土地を拡張し、人類は地球上に増えていった。

 18世紀後半、イギリスを始めとして「産業革命」が起きた。その以前の時代は「手工産業時代」と言われ、選ばれた人だけが修行によって技術を身につけて、ようやく働くことができる……という社会だった。そういう社会体制になると、だいたいの人は仕事や技術を守るために、家族経営、技術は一子相伝、ということになりやすかった。それ以外の人は働けなかった。働く機会が与えられなかった。
 産業革命が革命的である理由は「労働の民主化」だった。工場労働となれば技術の低い・高い、教養の高い・低い関係なく、すべての人が同じように働ける。すると庶民の格差も次第になくなっていき、全員が平等に富を得て、平等にご飯が食べられるはず……と思ったら次に起きた問題は「労働問題」だった。働き過ぎだ。産業革命が始まった初期の頃は機械にあわせて働かねばならなかったから、倒れるまで働いたし、子供も働かされた。
 その後、8時間労働で週に1度の休日という制度が作られたが、これでもその以前の社会と比較するとまだ働き過ぎだ。しかもこれくらい働くのが世界の常識になってしまった。
 平等に労働の機会が得られて、平等に収入が得られて、平等にご飯にありつけるシステムのはずだったのに、どうしてこうなった……。産業革命はより自然を破壊し、より人口を増やし、より戦争の切っ掛けを作っていった。産業革命は正しかったのだろうか?
 人類史はうまくいかなかったことの繰り返しである。ただその前の時代より多少マシ……というくらいなもので。新しい革命を起こす度に、これからも人類は人口を限界まで増やし、増え続けると戦争が起きて、そして格差社会が生まれていくことだろう。これからも人類はうまくいかないことを繰り返すのだ。

 もしも世界中の人々が悩むことなく腹一杯食べられる状況になったら、誰かを妬んだり、誰かの上に立とうと躍起になることもないし、ましてや誰かのものを奪ったりする必要もなくなる。これを国家規模でみてみると、他国をどうこうしてやろうという気もなくなるから、戦争もなくなる。そうすると平和が訪れる。
 「理想的な解」のような気がするが、そうすると次に起きる問題は人口爆発。人口爆発が起きると次に起きるのが食糧問題。食糧問題が起きると死ぬか戦争して他国の食料生産可能地域を奪うか……ということになる。それと同時進行で文化の軋轢も生じるだろう。自然の破壊も起きるし、次の自然破壊は食糧確保に問題を引き起こす。しかも世界規模で。人類は自分たちをコントロールすことはできない。
 結局、どこかで戦争……ということになる。
 人類は永久に解けない問題を抱え続ける。


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